「内なる自分」との対話

わたしを支えてくれる本: 自分のなかに埋め込まれたリーダーシップの種

※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 01 ソーシャルイノベーションの始め方』より転載したものです。

青木健太 Kenta Aoki

『重耳』(上・中・下)
宮城谷昌光
講談社文庫(1996)

社会問題に挑む組織のリーダーを務めるなかで、自分が取り組まざるを得なかったことのひとつは、「いかに驕らないか」ということだった。現場が見えづらい国際協力においては、たとえば途上国に住み続けているだけで何気なく「すごいですね」と言われてしまうことがある。心の奥底では大きなシステムの前に無力に立ち尽くすだけの自分を知っている。それにもかかわらず、競争によるプレッシャーや、自分のエゴが誉め言葉を求めてしまうことも恥ずかしながら体験してきた。

そんなときに心を戒めてくれるのは、小説で出会った中国の昔のリーダーと家臣たちである。中学校2年生の頃、塾の先生に薦められて初めて手に取った宮城谷作品が『重耳』だ。そしてそれ以来ほぼすべての作品を読み込むくらいファンになった。

さまざまな作品を通じて僕の心を捉えたのは、「人間の器」や「徳」についての考え方、そして君主と臣下の関係の描き方だ。国のために命をかけて諫言を行う臣下、損得を超えて旅を共にする仲間たち。人と社会の関係、人と人の関係はこれほどまでに美しくあれるのか、と興奮しながら読み続けた。

『重耳』の舞台は紀元前1000年頃の中国。衰退する周の周辺に小国が割拠していたが、そのなかの晋という国でのちに王(文公)となる重耳が、人間としては隙だらけでありながらも臣下の夢に支えられながら偉業を成し遂げていく物語だ。印象に残る言葉がいくつもある。冒頭で述べた「驕り」についてはこんなふうに語られる。

他人よりすぐれたものをもっていたら、けっしてそのものを誇ってはなりません。人は誇ったものによって、かえって滅ぶのです。
誇りの色は、主君をみて、臣下がおのずとだすものです。

驕りと闘う。僕にとっては人生のテーマだ。スタッフの皆が組織を誇りに思っている姿を見ることで深い充足感と自信が芽生え、誇る必要がなくなるという感覚はよくわかる。

もうひとつ印象に残ったのは、こんな言葉だ。

大器は晩成すということだ。真の賢者は愚者にみえ、真の聖人は無能にみえる。

いわゆる「大器晩成」である。重耳という君主は遅咲きの人で、初めて君主になったのが62歳、それまでの長い苦難の旅路こそがこの小説のハイライトだ。

自分が本当に大事だと思うことを愚直に進めているとき、どうにも成果が出ず、周りの評価がついてこないように感じて焦ってしまうことがある。そんなときに世を恨むでも、自身の無力さを嘆くでもなく、淡々と自分の心と繋がってやるべきことに全力を注ぐ。この言葉がそんなあり方を後押ししてくれるように感じた。

今回調べて知ったのだが、「大器晩成」は老子の言葉と言われていて、元々は「大きな器は完全な器ではない」という意味だったそうだ。完成してしまっているようでは器として不十分だということだろうか。

最初に読んだときは単なる英雄譚として読んでいた。しかし、そのときに埋めこまれたリーダーシップの種が、NGO を起業しておよそ20年が経とうとするいま、誉め言葉を求める自分の心を戒め、仲間と心で繋がり、組織の枠を超えて新しい世界をつくっていく旅の中で、花開こうとしている。

重耳に覇気を生じさせたのは、旅である。といい切ってもよい。
旅において、人をみ、天地をみた。

そんな旅を僕も続けていきたい。まだカンボジアに住んで13年。19年食べるものにも窮しながら進んだ重耳を思えば、道半ばもよいところである。

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