社会変化は個人の内面から始まる。
※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 05 コミュニティの声を聞く。』より転載したものです。
小林泰紘
『〈あいだ〉を開くレンマの地平』
木岡伸夫|世界思想社|2014
子どもの頃、家の前に森があった。たくさん遊び、育ててもらった森だ。それが10歳の頃、開発された。目の前で木がバタバタと切り倒されていく風景を家の窓から見て、悲しくて仕方がなかった。そのときに不思議だったのが、「なんでこんなにも自分の心が痛むのだろう」ということだった。伐られているのは木であって自分ではない。この「自分の心の内で森が伐られている」としか表現しようもない感覚はいったいなんなのだろう、と。
それから十数年が経ち、この疑問に応えてくれたのが『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』だった。物事を二元論的に区別し、分けていくロゴス的態度――近現代文明が前提とし、社会に深く根付いている考え方――に対して、レンマとは、分断することのできない物事の〈あいだ〉を認める哲学論理のことだ。あらゆる物事が互いにつながり依存し合う「相依相待(そうえそうたい)」の考え方や縁起説に基づいて世界を把握しようとする論理であり、大乗仏教の祖である龍樹が『中論』で打ち出し、日本では哲学者の山内得立(とくりゅう)が『ロゴスとレンマ』で著した。風土論や生命哲学を専門とする木岡伸夫による本書の真骨頂は、山内が示したレンマ的論理の中身を深く紐解いていることもさることながら、そもそもなぜこうしたレンマ的論理が現代に必要なのか、つまり、気候変動や社会経済格差などさまざまな不均衡がもたらす多層的危機の時代に、なぜこの〈あいだ〉の回復が必要なのか、という考察にある。
自身と不可分の「風土」という概念
1つ目の理由として挙げられるのは、「環境」の本当の意味を理解するため、というものだ。一般に環境と呼ばれるものは、人から区別された周囲の事物を指し、自分にとって外的な存在と考えられる。しかし、このような概念自体が、近代の二元論的パラダイムの要請によって生じたものだ。本来つながり合う物事を分断し、機械論的に要素還元するという観念操作によって、人間対自然あるいは人間対人間という形の対立を浮かび上がらせてしまう。他方、レンマ的論理における環境は、自己から切り離された外部の存在ではなく、自己がそこへと伸び広がり、自身と一体不可分な面を備えたものとなる。哲学者、和辻哲郎の「風土」とも言い換えることができる。
2つ目の理由は、現代社会が根本に抱える構造的な不均衡を乗り越えるため、というものだ。人と自然の〈あいだ〉を回復させることは、同時に、人と人の〈あいだ〉を回復させることでもある。どういうことか。地球規模の生態学的危機の根底にあるのは、人間による自然支配という単純な問題ではないと本書は指摘する。
近代科学革命以降、人が自然を支配の対象としてきた背後には、それと同時か、あるいは先立って、人が自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配するという幾重にも錯綜した支配-被支配の構図が隠され、問題を深刻化させてきた。そして現代文明を生きる私たち誰もがその構図に陥る危険性を内にはらんでいる。
これはそのまま、各地で改めて課題意識が強まっている脱植民地化(デコロナイゼーション)の問題といってもよいだろう。被支配の対象となる外部社会の人々は、産業文明において利用・搾取される自然、すなわち資源とパラレルな存在になってしまう。コロニアルな関係や暴力性というのは、物理的な植民地としてではなく、私たちの内にこびりついた無意識的な前提や無自覚の特権性に潜んでいる。
もちろんこうした問題については、これまでも一定の議論や内省が各分野で行われてきた。脱人間中心を掲げる環境倫理などの潮流や、ダイバーシティ&インクルージョンの進展などもその一例と見ることができるだろう。
だが、自然を含めた倫理的共同体における振る舞いをどんなに再考しようとしても、人と人、人と自然の〈あいだ〉を認めないロゴス的論理を拠り所としている限りは、近現代社会が直面する危機は乗り越えられないのではないかというのが本書の主張だ。たとえば「人間中心主義」から「自然[生命]中心主義」への転換を標榜したとしても、主客を入れ替えただけにとどまり、前提としている世界や他者との関係性や構造が繰り返されてしまうことも多い。
差異を差異のままにとどめる
ここで、〈あいだ〉論におけるもう1つの重要な前提を共有したい。それは、存在を「対立」ではなく「差異」においてみようとする立場だ。ロゴスが前提とするAと非Aの関係においては差異は対立を意味し、そこに中間は存在しない。しかし、AとA以外のものが対立以前の差異にとどまる場合、Aでないものは非Aではなく、Aとは異なるBとして見ることができる。この関係における両者の区別は曖昧さをはらんでいて、ある程度まで重なり合うことが容認される。差異を差異のままにとどめておくことで、両者は分断されることなく、つながることができる。「わたし」という存在にたしかに根ざしながらも、近代的個の呪縛から抜け出し、生の実感を物理的な身体に閉じ込めることなく、全体性とつながり直すことが許される。
このレンマの論理に出会ったとき、もはや忘れかけていた子どもの頃のあの記憶が自分の中で大きくうずきだした。私と木はその〈あいだ〉――私でも木でもないがゆえに私でも木でもあるという場所――で出会うことができる。「自分の内に森が存在していた」あの感覚の正体を手触り感をもって説明する術をようやく手に入れることができた。そして、人から自然を切り離し、外部化・対象化するロゴス的な見方―人類に劇的な文明発展をもたらす一方で、自然環境や他者への搾取や支配的態度にもつながってきた見方―を土台としたままの、1970~80年代的エコロジー運動や環境保全主義にどこか違和感を抱き続けていた自分にとっての突破口を開いてくれた。私たちは、世界から切り離され固定化された存在(human-being)ではなく、もっと流動的で、世界に応答しながら流れの中で生成され続ける存在(humanbecoming)なのだ。
ニッポンから世界に届けていく物語
世界を要素還元的に分節していくロゴスだけでは説明し難い経験の最たるものは、いのち、つまり生きることのリアリティだ。しかし、現代の社会システムやビジネスは、その点において欠陥を抱えた論理のみで説明され、まるで機械のように構築されてきてはいないだろうか。そのことに早くから気づいていた学者、南方熊楠は、「分ける」知性に基づいた産業文明と近代学問の発展に警鐘を鳴らし、生と死の二項対立を軽やかに飛び越えていく生きた哲学概念としての粘菌の姿に世界の真理を見ていた。熊楠の生きていた時代から100年近く経ったいま、改めて日本から世界に届けていける物語がきっとあるはずだ。
〈あいだ〉をめぐる問題は、ソーシャルイノベーションの新たな潮流となっている「エクイティ(構造的な格差の解消)」の実践ともつながっていくように思う。表面的な対策にとどまらない、社会的なシステムが生み出した構造的格差の解消を目指すにあたり、社会課題を明確に定義すればするほど輪郭線が強化されていく「支援する側-される側」「当事者-非当事者」の構造とどう向き合うのか、という点だ。ジョン・カニア、マーク・クラマーらの提唱するコレクティブ・インパクトの新たな定義として「エクイティ」が核に据えられたことは、近代二元論を超えた〈あいだ〉、すなわち支配-被支配の構造を超えた邂逅の場への要請を本質的にはらんでいるのではないだろうか。
こうした非二元論的パラダイムに基づく社会実装の萌芽は、哲学だけでなく、多くの分野で生まれてきている。たとえば、量子力学やマルチスピーシーズ人類学、モア・ザン・ヒューマン、あるいはサステナビリティ・サイエンスの議論もその潮流の一部と言えるだろう。コロンビア出身の人類学者アルトゥーロ・エスコバルは著書『多元宇宙のデザイン』(Designs for the Pluriverse)にて、抽象化による観念操作によってすべての物事を二元論的に押し込め、標準や普遍的(ユニバーサル)な正しさで自然や他者や支配する(欧米的)科学文明の呪縛を解き、各土地に根ざしたヴァナキュラーな営みを通じて、世界の多元的(プルリバーサル)な可能性を拓くことの重要性を指摘している。
切り離された世界と出会い直す
私は数年前にEcological Memesという法人を立ち上げ、人と自然の関係の再構築をテーマにさまざまな学際分野の研究者や実践者とともに活動をしているが、本書や〈あいだ〉論との出会いは創業やその後の展開の大きな契機となっている。最近では、企画・運営を行う「あいだラボ」で「人間以上の存在との関係を結い直すマルチスピーシーズケア」をめぐる探求型のコミュニティプログラムをリリースした。「人間-非人間」「ケアする側-される側」という二項対立的な構図を乗り越え、暮らしにおける自らの行為や儀礼、マインドセットをリデザインする試みだ。
あるいは、現在翻訳出版を進めている書籍『リジェネラティブ・リーダーシップ』(Regenerative Leadership)では、これを「個の在り方-組織文化-社会システムデザイン」という一連のレイヤーで実現し、生命システム論に基づいた創発を促すことを試みている。世界との〈あいだ〉を回復し、新たに出会い直すことは、自分自身の生きる実感や喜びに深くつながり直す営みでもある。時にピンと張り詰めるような緊張関係や寒さの厳しい冬の季節を伴うことがあったとしても、暗い再生の時期があるからこそ、生命力あふれる春の芽吹きがやってくる。
さまざまな危機が多層的かつ複雑に絡まり合い、この地球で人間の果たす役割がかつてないほど問われている時代だからこそ、「私」の再生成(リジェネレーション)が必要だと思う。動的な生成過程(becoming)を生きることは、変容可能性に開かれ続けていることと同義だ。一人ひとりの癒しがこの世界の癒やしであり、世界の癒やしが一人ひとりの癒やしであるような、 そんな〈あいだ〉の旅路をいま、多くの人が歩み出そうとしているのではないだろうか。
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