徳島県南端にある太平洋に面した海部町(現海陽町)は日本で自殺率が最も低いことで知られている。この町を対象とした研究から自殺の危険を抑制するコミュニティの特性が見えてきた。それらの社会実装に向けた試みを紹介する。
※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 05 コミュニティの声を聞く。』より転載したものです。
岡 檀 Mayumi Oka
社会的レジリエンスを高める「自殺予防因子」への着目
日本は自殺の多い国として知られている。昨年の自殺者数は 2万1881人であり、交通事故死者数の約8倍に相当する。人口10万対自殺率は G7加盟国の中では常にワーストである。自殺多発地域における自殺危険因子(健康問題、離別など自殺行動につながる要因)の研究は国の内外において厚い蓄積がある一方、自殺希少地域を対象とした自殺予防因子(自殺の危険を抑制する因子)の研究はほぼ手つかずの状態である。
自殺の増加は、孤立や経済的な不安定さを反映しており、その背後には構造的な社会問題があると言われている。1件の自殺(あるいは自殺未遂)に対し周囲の 5.6人が深刻な心理的影響を被るという報告があり、経済的損失もまた甚大である。2010年時点での推計では、仮に自殺やうつ病がなくなった場合、 GDPの引き上げ効果は約 1兆7000億円にのぼるとされている。こうしたことから、自殺は個人の問題ではなく社会全体として取り組むべき重要課題とされている。日本の自殺率は景気の悪化や金融危機による倒産・失業の影響を受けやすく、失業率との関係は OECD諸国のなかで最も高い。経済状態が悪化するたびに自殺率が上昇し、経済状態が改善すれば下降するという現象を繰り返している。
グローバル経済は複雑系で、災害と同様に予測もコントロールも困難である。だとしたら、災害に強い社会をつくるのと同様に、たとえ経済が悪化したとしても自殺が増えないという社会を目指すべきだろう。そのためには、危険因子への対処だけではなく自殺予防因子も複眼的に取り入れて検討することの意義は大きい。
本稿ではまず、日本で「最も自殺の少ない」町において筆者が2010年から続けている研究から見えてきた、自殺の危険を抑制するコミュニティの特性と住民気質について説明し、特徴的な住民気質の形成に寄与したと考えられる町の歴史と自然条件について考察する。さらに、自殺予防因子の社会実装に向けた試みを紹介する。多様な人々が共存する都市、そのなかの学校や職場といった居場所を、自殺予防因子の拡充という観点からデザインできれば、自殺に対する社会的レジリエンス(集団やコミュニティが困難を乗り越え、回復する力)は高まるものと思われる。
最後に、本研究から見えてきた、社会課題に取り組む際に重要となる3つのキーワード、①予防因子②人間行動科学(ナッジ/Nudge)③自然実験について述べる。
自殺対策やまちづくりに携わる人だけでなく、子どもの心身の健康を育むうえで重要な役割を担う保護者や教育者、その彼らが属する地域社会のすべての人たちに向けて、この町の研究から得られる学びを届けたいと考えている。
自殺希少地域で抽出した5つの自殺予防因子
いまから、日本で最も自殺の「少ない」町の話をする。最初にことわっておきたいが、これはいわゆる自殺対策の話ではない。その町ではいまだかつて、自殺対策というものを行ったことがない。
日本で最も自殺の少ない町、徳島県旧海部かいふ町(合併後は海陽かいよう町、本稿では旧町名で呼ぶ)は、県南部の太平洋に面した小さな町である。全国 3318市区町村の過去 30年間の自殺統計から、人口規模や年齢分布を調整して標準化自殺死亡比を算出し、極端に人口の少ない自治体を除外した結果のランキング[図1]であるが、筆者が研究のためにこの町に通い始めた当初はありふれた田舎町という印象しかなかった。
この町のいったい何が、これほどまでに低い自殺率に寄与しているのか。海部町に自殺が少ない理由として、そもそもこの町に自殺危険因子が少ないという仮説が成り立つが、自殺の二大動機である健康問題と経済問題に関する客観的データを集めて周辺町村と比較したところ大きな差異はなく、経済問題に関しては海部町の状況のほうがむしろ悪かった。すなわち、海部町だけが自殺危険因子を免れているわけではないことが確認されたのである。そこで筆者は、海部町には周辺地域と同様に自殺危険因子はあるものの、その危険度の上昇を抑える何らかの「自殺予防因子」があるという仮説を立て、調査を開始した。
その後4年間にわたり現地に足を運び、200人を超える人たちへのインタビュー、3300人を対象とした住民アンケート調査、GIS(地理情報システム)を用いて地形や気候と関連づけた解析など、質的・量的混合アプローチ研究を行った。それと並行して、同県にある自殺多発地域・ A町との対比も行いつつ、海部町コミュニティに潜在していると考えられる自殺予防因子の抽出に取り組んできた。自殺希少地域である海部町に際立って強く表れ、自殺多発地域においては弱い、もしくは存在しない要素が「多様性」「本質的な人物評価」「自己肯定感・有能感」「ゆるやかな紐帯」「適切な援助希求行動」という 5つの要素である。これら 5つの自殺予防因子について、町で観察したエピソードや住民語録の紹介を交えながら報告する。
●海部町コミュニティに際立っている特性
❶多様性の重視
海部町では、身内同士で強く結束し外に向かって閉鎖的な態度をとるような行動が見られない。排他的でないと同時に、意識的に多様性を維持しようとする言動がたびたび観察される。たとえばこの町に現存する江戸時代発祥の相互扶助組織「朋輩組(ほうばいぐみ)」には、海部町のユニークな特性が根づいている。類似した組織はかつて全国に存在していたが、それらの組織のほとんどが地縁血縁を重んじる排他的な結束を固守していたのに対し、海部町の朋輩組は、よそ者、新参者、またこうした組織には珍しく女性の加入も拒まず、多様な人々の参加を歓迎してきた。メンバーの組織に対する貢献度は十人十色であり、また、加入しないという選択をした住民であってもコミュニティにおいて何ら不利益をこうむらないという点も、他の類似組織とは大きく異なる特性である。
❷本質的な人物評価
海部町の人たちにとって、その人の家柄や財力、職業上の地位や学歴などは評価尺度の 1つではあっても、それがすべてではない。個々人が持つ人柄や問題解決能力についてもそれぞれ観察し、総合的に評価する。そのため、この町では一見誰がリーダーなのかよくわからない。
他者への評価が人物本位であることは、時々見られる「サプライズ人事」にも表れている。経験の少ない年少者であっても、その者のアイデアや能力が見込まれれば町の重役に抜擢してきた。不祥事を起こした者に対し、周囲は「一度目はこらえたる(見逃してやる)」と声をかける。一度の失敗で残りの人生にレッテルを貼られなければ、挽回のチャンスはあるのだと伝えている。自殺多発地域のA町では、一度の失敗が「孫子の代まで」忘れてもらえないと言われるのと対照的である。
❸自己肯定感、有能感の醸成
これらは「自己効力感(self-efficacy)」とも言い換えることができる。周囲の人々や世の中の事柄に対して何らかの影響を及ぼすことができると信じられる感覚であり、この感覚を持っている人が海部町には多い。
子どもたちは周囲から「あなたにもできることがある」と言われて育つ。一律に高度な目標を掲げてむやみに叱咤激励するのではなく、人間の能力は千差万別であることを認めたうえで、それぞれのアプローチで貢献することを求めている。
海部町の町議会では新人であっても古参と同等に扱われ、初日から積極的な発言、議論への貢献を求められる。他の多くの議会において新人は先輩議員の背後に控え、一人前に発言させてもらえるようになるまでに長いプロセスを経ていくのとは対照的である。
アンケート調査も、海部町の有能感を裏付ける結果を示した。「自分のような者に政府を動かす力はない」と感じている住民は、海部町では26.3%であったのに対し、自殺多発地域のA町では 51.2%と高く、大きな開きがあった。
❹緊密すぎない、ゆるやかな紐帯
周囲の町村に比べて、海部町では赤い羽根共同募金が集まりにくいことで知られている。他の町では住民らが皆同じような金額を箱に納め、次の人へと募金箱を回すのに対し、海部町では募金する人としない人が混じりあっているから、という単純な理由による。海部町の人々は、同調圧力を嫌う傾向がある。皆がするから自分もする、周囲と足並みをそろえるということに、重きを置いていないのである。この特性は、因子①で挙げた多様性の重視とも強く関係している。
住民アンケートの結果、「隣人と日常的に生活面で協力している」と答えた人は海部町で16.5%、A町では44.4%と、A町のほうがかなり緊密な人間関係を維持している様子が示されていた。海部町はといえば、立ち話程度、あいさつ程度の付き合いをしている人の比率が最も高い。コミュニケーションが切れてはいないものの、あっさりしたつながりを維持している様子がうかがえる。
同じアンケートの結果を使って項目間の影響も見てみたところ、その人が住むコミュニティが緊密であるほど、援助を求めることに抵抗が強まるという関係が示された。よりゆるやかな関係が維持されているコミュニティのほうが、弱音を吐くという行為が促されやすいということになる。
長年の自殺対策においては、人と人との絆の強化が重要視されてきたが、本研究の結果、絆は必ずしも自殺予防に寄与するものではないことが明らかとなり、絆の「強さ」よりもその「質」に目を向ける契機となった。
❺適切な援助希求行動
海部町には、「病(やまい)、市(いち)に出せ」ということわざがある。病とは文字通り病気という意味であると同時に、人生で遭遇するさまざまなトラブル、失態、心配ごとなどを指している。やせ我慢して悩みを抱え込むのではなく、早めにオープンにして助けを求めるよう促すことによって、問題の重症化を回避し、支援にかかるコストを減らすという危機管理術である。
アンケート調査の結果、海部町のほうが悩みを打ち明けることに抵抗を感じないという人が多いことが明らかになった。また、海部町は医療圏(地域住民の保健医療をカバーするために整備された単位。複数の市町村をまとめて 1単位とされる)内で最もうつ病の受診率が高く、しかも軽症の段階で受診する人が多いという特徴がある。自分の不調を認め、早めに援助を求めていることの表れといえよう。
うつに対するタブー視の度合いも関係している。海部町では、様子がおかしいと思った隣人に対し、「あんた、うつになっとんと違うん。早よ病院へ行て、薬もらい」などと言う。対するA町ではどうか。うつを強くタブー視するA町では、海部町のこのエピソードを紹介するといつも小さなどよめきが起きる。うつ症状を示す住民に対し保健師が受診を勧めようものなら、「頭がおかしいやて噂になったら、子どもや孫にまで迷惑かかる」と強い拒否反応を示されるのが常であるという。若年層の意識は少しずつ変化しているものの、高齢者の拒否反応は依然として強い。この事例に接してつくづく思うのは、いくら行政側が「うつかなと思ったら早めに受診を」と繰り返し唱えても、その効果には限界があるという現実である。地域社会のうつへのタブー視が弱まり、受診したからといって自分も家族も傷つくことはないという確信を持つことができて初めて、受療行動は促されるのであって、それがないままただ受診しなさいと言い続けても行動変容は望めない。
以上に挙げた自殺予防因子を俯瞰すると、「包摂」という共通項が浮かび上がる。そして、5つの因子は有機的につながり、効果を高め合っていると考えられる。援助希求(他者に助けを求めること)については、因子②に挙げた本質的な人物評価との関係が理解しやすい。一度や二度の不祥事があったからといって落伍者のレッテルを貼られることはない、挽回のチャンスは必ずあるというメッセージが浸透したコミュニティと、そうでないコミュニティ。悩みやトラブルを抱えた人が助けを求めようとするときに感じる羞恥心や抵抗感を緩和し、背中を押してくれるのは、前者のようなコミュニティであろう。
●海部町住民の幸福感
では、こうした町に暮らす住民の「幸福感」はどのようなものであろうか。アンケートの結果を集計したところ、大方の予想に反して、海部町は周辺町村の中で「幸せである」と回答した人の比率が最も低かった。興味深いことに「不幸せである」比率もまた最も低く、「幸せでも不幸せでもない」という人の比率が最も高いという結果だった。
この結果を海部町住民に示すと、彼らは幸せでも不幸せでもないという状態がちょうどよい、心地がよいのだと言う。「幸せではない=不幸」という思い込みを捨て、一時的で外発的な幸福感よりも持続的で内発的な安定感こそが重要であるという示唆であり、これは復興支援や高齢者支援などにおいても取り入れられるべき重要な概念であろう。
住民気質の形成に影響を与えた歴史と自然条件
前項では、自殺希少地域・海部町と自殺多発地域・A 町の比較調査から明らかとなったコミュニティ特性と住民気質の違いについて述べた。さらに調査を進めるにつれ、こうしたコミュニティ特性には、町の歴史と自然条件が関係している可能性が見えてきた。
海部町は江戸時代初期(1600年代)に材木の集積地として爆発的に隆盛し、一獲千金を夢見た移住者が押し寄せ、急速に発展してきた歴史がある。多様性を尊重し、相手の本質を見極め評価して付き合うという態度を身につけたのも、短期間に集まった人々が一斉に共同生活をスタートさせたというこの町の成り立ちが大いに関係していると推察される。「病、市に出せ」ということわざに象徴される合理的な危機管理術も、共存共栄を維持する必然から生まれたと考えれば納得がいく。
また、海部町とA町は人口規模や高齢者比率はほぼ同じであるものの、自然環境という点では大きな差異がある。前者は温暖な海岸部であるのに対し、後者は寒冷な険しい山間部に位置している。筆者は自然環境と自殺率との関係を把握するために、3318市区町村ごとに14 種類の気候および地形のデータを付与したパネルデータを構築して分析を行った。使用した地理データの中には、「可住地傾斜度(人間の居住が可能な土地の“傾斜”を表す指標。傾斜度の値が小さいほど平坦な土地、大きいほど険しい山間部であることを示す)」など、地図会社との協働で新規につくった指標もある。分析の結果、自殺希少地域は海岸部の平坦な土地で人口が密集し、温暖な気候の地域に多いことがわかった。
自殺多発地域はこの逆であり、過疎化の進む傾斜の強い山間部で、冬季には積雪する地域に多い。また、標高が高いだけでは必ずしも自殺のリスクを高めることにならないが、ここに強い傾斜が加わると急速にリスクが高まるという関係が明らかとなった[図2]。
ではこれらの地理的特性は、どのような経路をたどって自殺率に影響しているのか、こうした問いへの答えは質的・量的混合アプローチ研究から得られることが多い。険しい山間部の過疎地、特に積雪地帯では医療など重要な社会資源への到達に障壁が増え、日常生活での隣人間交流やソーシャルサポートなど、住民の精神衛生にとって良いと考えられている要素が得にくくなる。しかし、こうしたアクセスの問題より深刻なのは、何世紀にもわたり厳しい自然環境で生きてきた人たちに固着した思考や行動パターンではないかと筆者は考えている。こうした地域の住民、特に高齢者には、忍耐心、克己心が強く、多少のことでは助けを求めず自分で解決しようとする傾向が強い。
一般的には美徳とされるこうした特性も、自殺対策の観点からは慎重に対応する必要がある。世代間で長年にわたり継承されてきた思考や行動パターンを変容させることは容易ではないし、その必要もないのかもしれないが、対策に関わる人々がそうした傾向を理解していることの意義は大きい。
自殺予防因子の社会実装に向けて
筆者は現在、こうした自殺予防因子をいかにして定着させ、他の地域にも普及させていくかという課題に取り組んでおり、その内容は大きく2つに分類される。1つは、子どもの成長を追跡調査することによって望ましい思考や行動パターンを把握し、その促進要因と阻害要因を見出す試みである(子どもコホートスタディ「未来を生き抜く力、見つけたい」)。もう1つは、町の空間構造特性がソーシャル・キャピタル(信頼関係、規範、ネットワークなどの社会資本)や住民の援助希求行動にもたらす影響の解明である。本稿では後者について詳述する。
●町の空間構造特性と住民の援助希求行動の関係
海部町の空間構造特性―いわゆる街並みの最大の特徴は「密集」である。海沿いの居住区では家屋が密接し、車は入れないが住民が徒歩で移動するための細い通路、すなわち「路地」が非常に多い。前述した通り、海部町では隣人と立ち話をする機会が多いことがわかっているが、路地が多いという住環境と無関係ではないだろう。さらにそれらの路地には、江戸時代から続く建築様式「みせ造り(折り畳める雨戸が日中は縁台として使われる)」の「ベンチ」が点在している。
買い物や墓参り、診療所への行き帰り、これらの動線上にあるベンチに通りすがりの住民らが腰かけて世間話をする様子がよく見られる。ベンチは情報が集散する格好のハブとしても機能しており、ここでは困りごとの小出しが習慣化していた。当人たちは無自覚、無意識のようであるが、他愛ない会話を交わすなかで自分自身の悩みや隣人の変調、地域の気がかりな出来事などが頻繁に話題に上がっている。問題の早期開示と早期介入がうまく巡っていることが窺えた。
移動する住民たちはベンチがなければ停留しないし、停留がなければおしゃべりも悩み相談も始まらない。ベンチというものは、車道ではなく路地に設置される。路地の多い海部町が自殺希少地域であったことに着目し、路地と自殺率の関係についても分析を行った。
既存の地図データでは路地が網羅されていなかったため、土木や都市工学の研究者や地図会社の協力を得ながら、GISを用いて路地の存在を推定するアルゴリズムを構築した。この指標「路地存在率」を実装して三重県69旧市町村のデータを用いて分析したところ、路地の多い町ほど自殺率が低いという有意な相関が示された[図3]。その他の地形や気候の変数を入れて多変量解析を行っても、路地存在率の影響が最も強い。これは、コミュニティの中に路地が多いと住民間の観察や交流が促され、問題の早期開示と早期介入が循環し、自殺への傾きが抑制されるという筆者の仮説と、矛盾しない。
路地とベンチという「仕掛け」への着眼からスタートした空間構造特性の研究は、自殺対策の開拓という一面にとどまらず、いわゆるまちづくりや、多様な人々が共存する職場や若者が集う大学のキャンパスといった居場所がいかにデザインされるべきかという視点で、多領域からの関心を集めている。
社会課題に取り組むうえで重要な3つのキーワード
一連の研究を通して得られた視点とアプローチは、自殺対策やまちづくりに携わる人だけでなく、子どもの心身の健康を育むうえで重要な役割を担う保護者や教育者にとっても大いに役立つと思われる。以下に 3つのキーワードとしてまとめた。
①予防因子への注目
自殺対策のような社会問題の解決を目指すときにまず着手するのは、危険因子を取り除くということであろう。それが重要であることは言うまでもないが、同時に念頭に置いておかなければならないのは、どれだけの努力をもってしてもこの世界から危険因子をゼロにすることは不可能という現実である。
経済問題は最も強い自殺危険因子の 1つであり、これまで日本は経済状態が悪化すると自殺率が上昇し、改善されると下降するという高下を繰り返してきた。しかし真に目指したいのは、たとえどれだけ経済が悪化したとしても自殺は増えないという社会であり、そのためには、危険因子だけでなく予防因子についても複眼的に取り入れて検討する必要がある。その意義は、これまでの研究結果によって支持されている。
②人間行動科学(ナッジ/ Nudge)の導入
あらゆる社会問題への対処において当事者からの援助希求は要であり、それが適切に行われるのなら対策の大半は不要になるといっても過言ではない。福祉や教育の現場ではさまざまな手段で「悩みがあったら相談に来てください」という呼びかけを繰り返すが、この呼びかけには実は弱点もある。問題や悩みを抱えた人は既に疲弊していて、相談窓口にたどり着くための気力も体力も残っていないことがある。また、そのような相談窓口の存在を知らない、見つけられないというケースもある。これらの理由から、最も支援を必要としている人が最も支援にたどり着けないというジレンマが起きてしまう。既に弱っている人の判断力や行動力に委ねるのではなく、相談窓口という「アウェイ」に呼び出す代わりに、日常生活という「ホーム」の空間で「軽い悩み相談」を習慣化させることによって問題の重症化を抑制できる可能性がある。
本稿では、そのための「仕掛け」として路地とベンチの役割を紹介した。前述したとおり、路地を歩く住民はベンチがなければ停留しないし、停留がなければおしゃべりも悩み相談も始まらない。重要なのはその相談が無意識・無自覚のうちに行われる点にあるので、そこで人間行動科学、あるいはナッジの出番となる。ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー教授らの業績によって広く知られることになったナッジ(そっと後押しするの意=より良い選択を自発的にとれるように当人に知らせることなく手助けすること)を導入し、アイデアを練ることによって、対策の幅は確実に広がっていく。
③自然実験を用いたアプローチ
「自然実験」とは、研究者が意図的に被験者を集めたり介入実験を行ったりするのではなく、実社会に自然に生じた現象の原因と結果を観察することで因果関係を考察する研究方法を指す。先に述べた気候や地形が地域の自殺率にもたらす影響は、文字通り自然実験のアプローチから得られた研究成果の 1つと言える。
筆者の研究テーマは、コミュニティの特性と住民の心身の健康との関係を明らかにすることであるが、そもそも町の特性は数世紀かけて形成されていくものであり、たとえば海部町のベンチは 400年以上前に端を発している。数世紀の歴史において路地が多くベンチが点在していたコミュニティが、現在は全国で最も自殺率の低い地域だという事実がある以上、その因果関係を考えないのはもったいないことと思う。自殺予防に限ったことではないが、こうした社会問題への対策が奏功したかどうかを見届けるまでには長い年月を要する。既に結果が示されている事柄についてその地点から遡って要因を探索するというアプローチもまた、有効な研究手法の1つであろう。
昨今の社会学領域ではあたりまえのように学際研究が行われているが、自然実験アプローチにおいてはおのずと関連領域の種類は増える。その結果、多領域が自在に交差を繰り返しながら 1つの成果を得る
「超域研究(Transdisciplinary)」に向かうだろう。筆者は社会学領域に属する研究者ではあるものの、これまでに精神医学、疫学、地理学、土木、都市工学、歴史学、経済学、人間行動科学など、多種多様な領域の専門家と議論を重ねて仮説を設け、検証を行ってきた。それらは最初から計画されたものではなく、新たな問いが生じる度に弾力的に編成を変えるというやり方である。
都市の未来をこの町に見出す
本稿では、自殺希少地域・海部町をフィールドに質的量的混合アプローチ研究によって明らかになった 5つの自殺予防因子、その普及と定着に向けた取り組み、最適な研究アプローチの模索について述べた。
海部町は、集団で生きることと個を活かすことを絶妙に両立させてきたコミュニティである。このようなコミュニティを他所に再構築することは可能なのか、人間関係が希薄な都市部でも果たして 5つの自殺予防因子は有効なのだろうか、という懐疑的な意見も寄せられる。しかし、海部町の研究から得られた知見は、地方の町村のみならず都市部においても十分に適用可能と筆者は考えている。特に、都市の持つ多様性や開放性は自殺予防につながる可能性を内在しているし、そのための仕掛けの1つとして、空間構造特性の研究成果が役立つだろう。
本研究がさまざまな領域からの関心を集めていることは既に述べたが、その1つが「住みたい町ランキング」を再考するという試みである。従来のこの種のランキングでは客観性の高い量的データが多用され、それらを得点化することで順位が決定されてきた。代表的な量的データとしては、医療など重要な社会資源への物理的アクセシビリティーーその距離、到達所要時間、交通手段、面積あたり診療所数などが挙げられる。こうした量的データの検討は不可欠であるが、同時に、住民の心身の健康に強く影響するのは本稿で述べた「包摂」など極めて抽象的な概念であることを忘れてはならない。質的要素は数値化が容易でないという面があるものの、本研究で培った代替指標の開発や分析をさらに洗練させることによって、望ましいコミュニティの未来図を描き出していきたいと考えている。
参考文献
・厚生労働省「自殺対策」。https: //www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/index.html
・岡檀「『悩みがあったら相談に来てください』:この呼びかけの弱点は何か――自殺対策に資するさまざまな研究アプローチの試み」『精神療法』 増刊(9), 70-76, 2022.
・岡檀「統計的思考が児童の自己肯定感に及ぼす影響:子どもコホートスタディに寄せる期待と一考察」『科学教育研究』 43(3), 280-282, 2019.
・Mayumi Oka , ”Quantifying Environmental Characteristics in Social Epidemiology――Devising a Method for Estimating “Alleys,'” The Institute of Statistical Mathematics, 2019-2020, 11, 2019.
・岡檀、谷口亮、石川剛、坂本圭、大平悠季、織田澤利守「コミュニティの空間構造特性と住民の思考および行動様式の関係;『路地』推定ロジックの構築と検証の試み」『都市計画報告集』(17), 355-359,2018.
・Mayumi Oka, Takafumi Kubota, Hiroe Tsubaki,Keita Yamauchi, ”Analysis of impact of geographic characteristics on suicide rate and visualization of result with Geographic Information System,”Psychiatry and Clinical Neurosciences , 69(6), 375-382, 2015.
・Mayumi Oka, ”Social ecology and suicide: Analysis of topographic and climatic characteristics in areas with low and high suicide incidence,” Psychologia , 57(2), 65-81 2014
・岡檀『生き心地の良い町――この自殺率の低さには理由(わけ)がある』講談社、2013年。
・岡檀、山内慶太「自殺希少地域のコミュニティ特性から抽出された『自殺予防因子』の検証:自殺希少地域および自殺多発地域における調査結果の比較から」『日本社会精神医学会雑誌』21(2), 167-180,2012.