コミュニティの声を聞く。
Vol.05
「個才」を解き放つ新しい学び方※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 03 科学技術とインクルージョン』のシリーズ「科学テクノロジーと社会をめぐる『問い』」より転載したものです。福本理恵 Rie Fukumotoデータを大量に集めれば「人間」はわかるのか日常生活のなかで「共感」という感覚を伴うとき、人間の心の動きはとても複雑だ。その複雑なものを科学的に証明するには、数字での裏付けがなければならない。しかし、緻密な実験をすればするほど、私の中に葛藤が芽生えた。そもそも共感性とは、数字で測れるものなのか、と。私は大学院時代、人間の知性や心の領域について研究していた。たとえば、人間関係を構築する土台となる母親と子どもの「共感性」はどう育まれるのか。その仕組みを明らかすることが研究テーマだった。共感性の神経基盤には、ミラーニューロンという模倣(非言語のコミュニケーション)の神経基盤が関係している。そして、ミラーニューロンが位置する脳の領域は、「ブローカ野」という言語中枢を司る領域でもある。人間の進化の過程から考えると、共感する際には言語の前に非言語でのコミュニケーションが必要だったのではないかという仮説を立て、実験では、人の表情が変わる動画や、指を動かす動作を見せて、NIRS(近赤外分光法)で計測。1/1000 秒刻みで蓄積されていく膨大なデータをもとに、脳の賦活状態を科学的に分析していた。しかし、私の実験で得られたデータは、あくまで人間の一部の要素にすぎない。これらの要素を統合しても、人間の知性や心の動きの全体像を語ることはできず、こぼれ落ちるものが生まれてしまうのだ。「私の研究はどのようにして人々の日常の暮らしを豊かにし、社会に接続できるのだろう」。その「解」がわからなくなった。科学技術の定義に基づく手法を駆使すると、こぼれ落ちるものが必ず出てくる。データを大量に集め、統計的な処理をすることは、個人間の差異や、個々人が持つ才能(個才)を排除することでもあるからだ。研究のなかで矛盾を感じた私は、「科学は『分断』を越えられるのか?」という問いを抱き続けている。
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