「内なる自分」との対話

分断を超えたなめらかで豊かな未来創造

※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 04 コレクティブ・インパクトの新潮流と社会実装』より転載したものです。

中間真一|Shinichi Nakama

『なめらかな社会とその敵ーーPICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』
鈴木 健|筑摩書房|2022

「未来学」というものとかれこれ30年ほど付き合ってきた。未来学とは、未来はどうなるのか(予測)、未来をどうしたいのか(ビジョン)についての学際的研究領域である。

なぜ未来か。私は、ものごころついてから「価値」というものに強い関心を抱いてきた。価値や価値観は、はじめからそこにあるものではなく、世の中、人々が決める。価値観はどんなふうに生まれ、変化をたどるのか。そんな問いへの答えを求めて、文化人類学、民族学の世界にも関心が及んだ。そこで、強く影響を受けたのが文化人類学者の梅棹忠夫先生の著作だった。

私の社会人スタートは、写真フイルムの生産技術者からだ。真っ暗闇の工場内で、ベースフイルムの上に、ミクロン精度で同時に何層もの乳剤を爆速で塗布する技術に誇りを感じていた。しかし、巷での写真は「プリント0円」つまり「価値なし」と表示されていて違和感があった。ちょうど、その頃に出合ったのが現在の仕事場、オムロンのヒューマンルネッサンス研究所である。写真の未来、映像の未来をテーマにコラボレーションできないかと扉をノックしたつもりが、そのまま創業メンバーとして参画することになった。

1990年代に入ってまもない当時、ヒューマンルネッサンス研究所は、SF作家の小松左京さん、哲学者の鷲田清一先生ほか気鋭の若手学者をはじめ、建築家やアーティストなど「未来価値」を見据えた方々が集まる未来学の梁山泊のようだった。その刺激のなかで、オムロンの創業者立石一真が梅棹先生などの京都学派や海外の未来学者とのやりとりから1970年に構築していた未来予測理論「SINIC理論」を下敷きにして、私の本格的な未来学の道程はスタートした。

それから少し経つとWindows95の登場で、家庭にもパソコンが爆発的に普及し、インターネット社会到来の予兆も芽生えた。一方、バブル経済崩壊で未来への不安も増した。これまでの延長線上には未来が見通せなくなったなかで、私たちはSINIC理論を羅針盤として、21世紀初頭から始まるパラダイムシフトの「最適化社会」と、その先に到来する「自律社会」の社会像を描きつつ、「未来の社会が必要とする新たな価値を創造して、よりよい社会をつくる」ための研究を意気揚々と始めていた。

「最適化社会」というと、制御し尽くされた最適解に基づく社会という誤解も招き、「そんな理想社会が数年後に到来するはずがない」という声も届いた。しかし、そうではなく、一人ひとりに最適な社会へと変化する時代、価値観遷移の渾沌期を意味しているのが「最適化社会」である。2000 年代になっても、まだまだ「モノづくり工業社会は拡大し続ける」という成長拡大志向は強かった。それでも、私は100万年前の人類史から辿る、螺旋状の円環的な未来進化のSINIC理論に確信を持ち続けていた。

この理論の未来シナリオでは、最適化社会というトランジションのカオスは、2005年から始まる。確かに、パラダイムシフトは始まった。なかでも、2008年に起きたリーマンショックという経済システム破綻後の混乱は大きかった。その先のビジョンを持って進めばよかったのだが、巷ではディストピアに向かう未来ばかりが喧伝され、失われた20年などと後ろ向きに嘆くばかりとなった。

世間の風向きは、私たちの未来研究に対しても向かい風となった。なんとか加勢となるような、長期視点の優れた新しい未来ビジョンが、次の世代から出てこないかと切望しつつ過ごしていた。

そんな2013年のある日、書店の棚から、『なめらかな社会とその敵』というタイトルが、私の目に飛び込んできた。そして、直感的に強い同志を得たと感じた。

インターネットが、フラットな社会を実現するといわれていたが、「なめらかな」という形容詞に惹きつけられた。著者の鈴木健氏のプロフィールを見ると、脳神経科学の研究者ながら、社会システム論や哲学にも領域を拡げて、ポジティブに社会の未来可能性を探っている人物と察せられた。本を開くと、「1975年生まれの私にとって……」という前書きに始まり、少年時代にベルリンの壁崩壊前後を現地で、リアルタイムで見聞きした著者の体験が記されていて、引き込まれた。

[なめらかな社会とは]今までの社会がもっていた、世界を単純に観ることによって成立してきた秩序を破壊することに他ならない。複雑な世界を複雑なまま生きることを可能にする新しい秩序、それがなめらかな社会である。

『なめらかな社会とその敵ーーPICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』より

この新たな思想が未来への希望となり、社会のコアシステムに本質的な変容を迫る、それでいて空想的理想主義ではなく、現実主義に立脚した「近代のメジャーバージョンアップ」なのだというくだりを読み、「これこそ、SINIC 理論の未来ビジョンである自律社会とシンクロする、強力なオピニオンだ」と確信して小躍りした。確かに、社会は複雑さをそのままにしておけずに単純化に向かってしまう。一人ひとりの自律ではなく、どこかの制御に自らを委ねざるを得なくなる。

だから「なめらかさ」こそ、見通すべき未来像のキーワードなのだ。その前書きは次の文章で結ばれていた。

私が本書で提案する内容は、300年後の人々からも結局は愚かだと断定されることになるかもしれない。だが、それでもいくばくかの知的貢献をなすことができれば、本書を書く十分な理由にはなるだろう。

『なめらかな社会とその敵ーーPICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』より

なるほど、著者もドン・キホーテ扱いされることを免れようと、300年というモラトリアムを用意している。しかし、これは本意ではなさそうだ。非連続な未来を語ろうとすると、どうしても保守派の批判にさらされる。私もそれで何度も心が折れそうにもなった。しかし、変化と進化はテクノロジーを追い風に確実に進んでいる。

私は、未来への道筋を、工業社会の「機械論パラダイム」から、人間性回帰の「人間論パラダイム」、そしてさらには「生命論パラダイム」として唱えてきた。

これをインターネット時代という直近の時間でいえば “Internet of Things(モノをつなぐインターネット)” から“Internet of Bodies / Brains(ヒトや脳をつなぐインターネット)” への遷移と重ねられる。『なめらかな社会とその敵』ではさらにその先の話をしている。

“Internet of Cells(細胞がつながるインターネット)”だ。

私たちの分人の単位を細かくしていくと細胞にいきつく。神経細胞が神経系のネットワークの要素として振る舞うのと同様に、他の細胞も情報処理や意思決定のノードとして使うことができるようになる。……新たなコミュニケーションレイヤーを拡張することができれば、いわば「人間拡張の技術」ではなく「生命拡張の技術」あるいは「細胞拡張の技術」が可能になるだろう。

『なめらかな社会とその敵ーーPICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』より

しかし、この「なめらかな社会」の議論は、加速をつけて盛り上がるまでに至らず収束してしまっていた。ところが昨年、単行本発刊から10年を経て文庫本として再び棚に並んだ。300年かからずとも、わずか10年で世の中が新しい価値観を求め始めたのだ。

著者は文庫本発刊に際して、単行本発刊から10年の間に現れ始めたDAO(Decentralized Autonomous Organization:分散型自律組織)やWeb3 などの未来予兆を取り上げて「なめらかな社会への断章」という長い補論を加えている。そして、なめらかな社会は、待っているだけでは到来せず、私たち一人ひとりが参画する必要があると説いている。そうだ、参画の時代だ。そして、次のように人間中心主義を超えた未来を展望している。

なめらかな社会が人類だけではなく、生態系全体にまで広がるとしたら、どのようなことが起きるのだろうか。……より対称的に、私たちは自然と共に考え、共に生きるようになるかもしれない。

『なめらかな社会とその敵ーーPICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』より

まだまだ、「なめらかな社会」への敵は多い。自分自身が敵かもしれない。それを超えて、敵と味方を分断せず、なめらかにつないでいく発想こそ、よりよい、より面白い未来の想像と創造につながるはずだ。そして、それはたぶん、中心からでなく周縁から生まれ出てくるだろう。ますます、未来学は面白くなる。

*【SINIC(サイニック)理論】科学・技術・社会の相互作用と価値観変遷の円環論的関係の下に発展してきた人類史を捉え、未来を予測した理論。オムロン創業者の立石一真らにより1970年に構築された。2005年~2025年の大転換の渾沌「最適化社会」を経て「自律社会」、さらに、新しい人類社会「自然社会」が位置付けられている。

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