先進国では語られない識字率の壁
※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 03 科学技術とインクルージョン』のシリーズ「科学テクノロジーと社会をめぐる『問い』」より転載したものです。
慎 泰俊 Taejun Shin
製造業が先進国に戻ることの意味
テクノロジーは課題解決の大きな助けにもなれば、同時に新たな課題も生むものだ。
テクノロジーの発展によって、途上国と先進国のギャップがどんどん広がって、埋まらないほど大きなものになることを懸念している。産業革命以来、人間の労働が機械に置き換わってきたが、これからもその流れには拍車がかかるだろう。その行きつく先は製造業の先進国回帰である。
これまでは安価な労働力のある途上国の工場で生産したものを需要(市場)のある場所まで輸送コストをかけて運んできていた。労働力が人から機械に置き換われば、より市場に近い場所で生産でき、輸送コストも下げられる。
先進国からすると製造業が国内に戻ってくることは、輸送コストが軽減できるだけでなく輸送に伴う二酸化炭素排出量も減らせる。やはりテクノロジーはありがたいということになるが、途上国にとってはどうだろう。まず製造業が先進国に戻ってしまうことで途上国は雇用を失うだけでなく、国としての成長機会も逃すことになる。工場で労働者が技術を身につけ、国の成長を支える。途上国の経済成長にとって、製造拠点があることが重要なのは歴史が証明している。自国の市場が未熟な状態で外国の製造業が撤退すれば、海外投資と輸出に支えられた経済成長モデルが成り立たなくなる。途上国の空洞化による影響があと10年から20年の間に目に見えるかたちで出てくるだろう。観光資源があるところはまだましだが、それもない国の成長戦略はどうあるべきか。これはまだ答えがほとんど見えていない問いである。
被害の当事者不在で進む「火事の止め方」の議論
気候変動対策における科学技術については特に途上国の視点からの議論が抜け落ちているように思う。途上国に住む人たちの温室効果ガス排出量は1人当たり年間1トンといわれている。一方、先進国の温室効果ガス排出量は1人当たり年間10トン。10倍の開きがある。
環境に負の効果をもたらしているのは圧倒的に先進国だが、実際の気候変動の影響を真っ先に受けるのは、インフラや技術、資金、人材が不十分な途上国に住む低所得層の人たちだ。
2015年のパリ協定以来、2050年のネットゼロ(温室効果ガスの排出量が吸収量と除去量とほぼ同じになる状況)を公約している国も増えた(日本でも2020年に菅前首相が宣言している)。しかし、2050年までにネットゼロを達成したとしても手遅れで、地球の姿は今と大きく変わっているかもしれない。そのとき、途上国に住む人たちの命はどうなっているだろうか? 2050年のネットゼロだけでは救えないとなったとき、私たちに、プランBの準備はあるか?
ネットゼロを達成するためのテクノロジーの開発と応用は進んでいるが、気候変動により大きな被害を受ける人たちの「命を守る」テクノロジーについては、議論も不十分だ。
気候変動が深刻になり地球が大きく姿を変えたとしても、先進国に住む大部分の人たち、特に大人たちはどこかで「自分たちは逃げ切れる」と思っているふしがある。火事が起きているとき、火をどうやって効果的に消し止めるかを考えることは重要だが、それは、その火事で人の命が失われることをどうやって防ぐかという観点からなされなくてはならない。
現状の気候変動をめぐる議論では、火事で焼け死ぬ可能性が低い先進国に住む人たちが火事を止めるための話をリードしている。地球上の人口の約半分、40億人は途上国に住んでいる。火事によって命を落とす可能性が高い当事者が不在のまま火事の効果的、効率的な止め方の議論がなされているように見える。
海面上昇に対する堤防の役割を果たし、大気中の二酸化炭素を大量に吸収するマングローブを植林するとか、災害に強い住宅をつくるなど、既に話されていることもあるが、まったく不十分だ。ネットゼロを達成してもリスクにさらされ続ける可能性のある40億人の命や暮らしをどう守るか。この命の課題に焦点を当てたテクノロジーの議論が必要だ。
スマホがあれば金融包摂は可能なのか
最後に私の本業のミッションである金融包摂について話をしたい。私の会社ではより便利で安価な金融アクセスを世界中の途上国の人たちに提供する事業を手がけている。口座がつくれない、銀行からの融資が受けられない、安全な貯蓄手段を持っていないなど、金融インフラが不十分な途上国に住む人や中小零細企業を対象とした数万円から数十万円規模の小口融資(マイクロクレジット)が主要サービスで、インド・カンボジア・スリランカ・ミャンマー・タジキスタンにいる8000人を超える社員が、120万人の顧客にサービスを提供している(2022年6月現在)。
デジタルテクノロジーやデータサイエンスを最大限活用することで、途上国基準では低金利の融資が実現できている。それでも途上国に住む顧客へのサービスが、テクノロジーの力だけで完結することはほとんどない。私は「スマホですべての人の金融包摂を」といった論調にはむしろ警戒感を覚える。そもそもマイクロファイナンスの顧客層のスマートフォン所持率は30%以下で、インターネット環境がある人たちも限られている。さらに大きなボトルネックとなっているのは顧客層の識字率だ。
途上国の識字率は平均して70%、旧ソ連系の国々を除くと65%といわれている。私たちの顧客となる貧困層の人たちは約40%が読み書きできない。字がまったく読めないところから読み書きが可能となるのはとても長い道のりで、歳を重ねれば重ねるほど難しくなる。識字率によって生じるデジタルデバイドは、先進国に住む私たちの想像よりはるかに深刻だ。
私たちが顧客にサービスを提供するときは、音声読み上げサービスを活用したり、利用者に署名の仕方を教えたりしながら、共に融資のプロセスを進めていく。ここでは今のところテクノロジーが発揮する力は限定的で、必ず人が介在する必要がある。
私たちの会社は金融業には珍しく、社員の半分はテクノロジー企業出身、半分がプロフェッショナルファーム出身という構成であるが、それはマイクロファイナンスという分野においてはテクノロジーと同じくらい人的なサポートが必要だからだ。
私はどのような仕事でも「現場感」が大事だと思って取り組んでいる。現地に行き、グループ会社の役職員とひざを突き合わせて議論をし、利用者と生活を共にしながら実情を知る。コロナ禍において国の行き来が制限されてオンラインで進める仕事も増えたが、それでも可能な限り現地に行くようにしている。現場で得られる実感はテクノロジーの力では埋められないからだ。
テクノロジーは使う人によっていかようにも使うことができる。人の命を守り、世界を少しでもよい場所にするためのテクノロジーについて、今後も本質的で積極的な議論がなされることを願ってやまない。
【構成】SSIR-J