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決定権限がある側と一般市民の「パワーの差」をいかに解消するか

決定権限がある側と一般市民の「パワーの差」をいかに解消するか

これからの社会運動のあり方を考える

※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 04 コレクティブ・インパクトの新潮流と社会実装』のシリーズ「社会を変えるコラボレーションをめぐる『問い』」より転載したものです。

鎌田華乃子

なぜ日本人は社会運動から距離をおくのか

私は現在、ピッツバーグ大学社会学部博士課程にて、「なぜ日本の人々は社会運動に参加しないのか、何が参加を促すのか」を研究している。

このような問題意識は、市民の力で社会を変えていくための方法論である「コミュニティ・オーガナイジング」をアメリカで学び、日本で広めようと活動するなかで浮かび上がってきた。コミュニティ・オーガナイジングの手法を伝えても、実際に多くのアクションが生まれたわけではなかったからだ。社会課題の解決に取り組むNPOも、市民をオーガナイズする役割を担うことができるはずだが、取り組んでいるところは少ないように思われる。

私自身が日本で刑法性犯罪改正のキャンペーンに関わったときも、法律やシステムを変えることに対して「それは無理だ」という反応が多かった。実際には、市民が動けば変えられるはずなのに、なぜこんなにも人々と社会運動との間に距離があるのか。これは、私が一生追求し続けるテーマになりそうだ。

研究で見えてきたのは、社会運動との距離感は世代によって異なるということだ。1960年代、70年代の安保闘争を経験した60歳代後半以上の人たちは、社会運動への参加のハードルが比較的低い。一方、それより下の世代の人たちには、政治的な話題を避ける傾向や、社会運動への参加自体を良しとしない意識があるように感じられる。

その要因の1つとして、安保闘争などの運動が過激化してハイジャック事件や浅間山荘事件などが起きた時期と、テレビの普及時期がちょうど重なったことを指摘する研究者は多い。社会運動の負の部分が世間に強く印象づけられたのだ。

一般に、日本人は「日本人論」が好きだと言われる。書店には日本人の特徴や特殊性について書かれた本がたくさん並んでいるが、よくあるのは「単一民族国家で、平和を愛してきた日本人」といった語り方だ。実は戦前の日本は、当時の帝国主義に倣いアジアの多民族国家を標榜していたことも研究で指摘されている。

しかし戦後になると、先ほど述べた「和を尊ぶ日本人」というナラティブが広く受け入れられ、社会運動の過激なイメージと相まって、社会運動に参加するのはおかしなことだという意識が主流になったと考えられる。

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