
近代医学がもたらした「分断」を乗り越えるには何が必要か
生と死、健康と病気、若さと老い
※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 03 科学技術とインクルージョン』のシリーズ「科学テクノロジーと社会をめぐる『問い』」より転載したものです。
占部まり Mari Urabe
命と向き合う
テクノロジーがいくら発展しても、万人に老いや死は訪れる。だからこそ生命に対して向き合う必要がある。医師として臨床の場で常に感じていることは、「人が生きるとは何か」という根源的な問いだ。裏を返せば「死をどのように考えるか」ということでもある。かつては自宅で近しい人々に看取られていた命が、いまは病院で亡くなることがほとんどで、時に、病院や施設を転々としてその途中で亡くなることもままある。医療の現場を含めて、この社会において、命の最後の瞬間を手元に持っていたくないという風潮があるように思う。語弊を恐れずに言えば、命というボールを自分以外の誰かが落とすまでパスし続けているような感じだ。誰かが落としたら「ここまで一生懸命パスを回してきたのだから仕方ないね」とそこで試合終了。ボールを受けとめ、いったん目の前に置いて、じっくり見て考える機会がなくなっていると感じる。
その背景にあるのは生と死の分断ではないだろうか。どこからが死かを定義してしまうと、そこから先は生命が存在したこと自体が否定されるようなイメージがある。そもそも人はいつ死ぬのか。死は生活機能の停止を意味し、多くの場合、死の三徴といわれる瞳孔散大、呼吸停止、心臓拍動停止を確認した段階で医師は死んでいると判断するのだが、このような状況で救命活動が始まることもある。現場では、その判定は医師の医学的経験に基づいて行われており、実は厳密な定義があるわけではない。科学が発展した現在でも、死とは曖昧なものなのだ。物理的に存在しなくなった後でもその人が存在した気配がいたるところに染みついているような感覚は誰しもが持ったことがあるだろう。イザナギとイザナミの神話にもあるように、昔の日本人は、生と死の世界を自由に行き来するような生命観を持っていて、いまでもお盆などの風習にそれが残っているが、医療の現場において死を正式に宣言してしまうことで「その先」を語る場がなくなってきているように思う。
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