※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 02 社会を元気にする循環』より転載したものです。
井上英之 Hideyuki Inoue
この春、息子が小学校に入学した。
この小学校は、自力通学を大切にしていて、3月に6歳になったばかりの彼も、入学式の翌日には、地方都市の電車で数駅の冒険をすることになっていた。
小さなプラットフォームに電車がやってきて、ドアが開き、息子が乗っていく、その一瞬。1年生とわかる黄色い帽子をかぶった小さな体が、ふわっと、手を離れていく。
車内には、上級生の子どもたち。彼らが黄色い帽子を待ちかまえていて、こっちにおいでと、女の子がやさしく手招きをしてエスコートする姿が目に入る。すぐに、息子の近くに立っている男の子と目が合う。おもわず手を振り、心の中で「おねがいします」と、言葉にならない気持ちを送る。
この数秒の間に、黄色い帽子たちは、新しい世界と関係性につつまれ、電車に乗って旅立っていった。春の風吹くプラットフォームに残された僕たち親は、「乗ったよ」「乗ったね」と、電車を見送った。
縁あって、『21世紀の教育』という本の監訳に携わった。原題は The Triple Focus といい、EI(感情的知性)で知られるダニエル・ゴールマンと、システム思考で有名なピーター・センゲが、共著で教育について書いたものだ。
監訳するにあたって苦労した言葉のひとつが「エンパシー(empathy)」だ。
日本語ではよく「共感」と翻訳されるが、僕は「他者に気づき理解すること」と訳した。この本の中でゴールマンが述べているエンパシーには3種類あるのだが、最初の2つは「感情的な他者理解(エモーショナル・エンパシー)」と「認知的な他者理解(コグニティブ・エンパシー)」だ。「共感」という表現は、前者を強調する響きがあると思う。
ライターのブレイディみかこさんも「共感」という訳には違和感を持っていて、「エンパシー」を「湧き上がる感情に判断力を曇らせることなく、意見や関心の合わない他者であっても、その人の感情や経験などを理解しようと、自発的に習得する『能力』」と言い換えている。いわゆる「感性」の問題にしてしまうと、自分と同じような立場の人しか理解できなくなる。だが、自分の感情やその背景を理解するように他者の理解を進めることで、この能力を技術として身につけられるという。
これはとても大切なことだ。共感は人間のすばらしい能力だが、それだけに着目すると、対象となる状況があまりにも厳しいときに自分の感情に圧倒されてしまう。「共感疲労」という言葉もある。逆に、周囲にくらべて自分が共感できていないのでは、と罪の意識を感じる人もいるだろう。自分の人間としての感じる力に不足があるかのように。
一方で、ゴールマンが、「認知的な他者理解」という言葉を通じて伝えているのは、他者がこの世界をどう見て、どう考えているのかに気づき、彼らの視点やメンタルモデルを理解するということだ。その際、まず自分がどのように感じているのかに気づいて理解を進めることが大切になるという。自己理解が他者理解につながり、より相手に伝わるコミュニケーションにもつながる。
「共感」は無理やりするものでもさせられるものでもない。「共感」はしていてもいいし、していなくてもいい。
まずは自分の感じていることに気づき、その背景を理解していく。そして、自分を理解するように、同じではない他者を理解してみようとする。そこから新しい選択肢が見えてくるのではないだろうか。
教室のどこにいても、どんな働く現場にいても。メディアを通じて、自分が想像しきれないような災害や戦争、人権が侵害される状況に触れて、自分は何もできないのではと、無力感を感じるようなときも。まずは自分を感じてみることが、「情報」の向こうにいる人たちに対する理解を進め、次の一歩になるんじゃないか。
ゴールマンのいう3つ目のエンパシーは、「他エンパシー者理解からの配慮」だ。誰かの気持ちにアクセスし、忙しい自分の足を止めてみる。他者を感じ取り、理解することからのアクション、もしくは助けようとするマインドそのもの。これは「コンパッション」と呼ばれることもある。
息子が初めて電車に乗って学校に向かったときの風景を思い出してみる。
黄色い帽子の1年生を、車内で迎えた上級生たちは、何に気づき感じ取って、体が動いたのだろうか。小さな車内の、小学生たちの世界。
息子の手が自分の手をふわっと離れたときに生まれたのは、大丈夫だろうかという親としての不安と、子どもたちの中にある力強さや、彼ら自身が新たな状況を創れるんだという発見だった。それはこの世界が本来持っているしなやかな力に気づくことでもあった。
手を放すことで、いままで見えていなかった世界が目の前に出現したことに驚き、そして、あたたかな希望を感じた。