ソーシャルイノベーション

Thoughts for Tomorrow(3):エネルギーを生み出すもの

※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 03 科学技術とインクルージョン』より転載したものです。

井上英之 Hideyuki Inoue

今年の夏、久しぶりにアメリカに行った。

カリフォルニアの空の下、商店街を通る車道の一部を封鎖してつくったスペースに、赤い大きなパラソルを張った野外のテーブルが広がる。この即席の広場で食事する人たちの、笑顔や響く声。そこにはエネルギーがあり、時空の抜け感が感じられる。

スタンフォード大学のすぐ近く、パロアルトの商店街では、このように公道の一部を野外の食事スペースにして、飲食店が食事を提供できるようにしている。

テイクアウトではないので、サービスをする人たちの雇用も維持できる。そして人々が集い、町に大切な何かが生まれ、次の動きとなって再生産されていく。

エネルギーがある、というのは、実はものすごく大事なことだ。

メジャーリーグのスタジアムに行くと、懐かしい開放的な空間があった。もともと日本の球場に比べてネットも低く、選手たちとの距離が近い。アメリカの球場は、コミュニティーの舞台でもある。皆が楽しそうに、思い思いのやり方で野球を観る。広がる空を感じ、そしてたたずみ、それぞれに声を出す。一緒にいる息子も本当に楽しそうだった。

新型コロナウイルス感染症が広がってから初めて訪れるアメリカ社会では、マスクをする・しないに対しても、さまざまなグラデーションがあるようだ。屋外ではマスクをしない人が非常に多いが、時折、とても厳重にマスクをしている人もいる。それぞれの、外からはわからない身体的な状況や気持ちによって、自分で立ち位置を選択し、そのあり方が日本に比べて許容されているように感じた。

この国の抱えるさまざまな課題やジレンマもあるなか、良い意味での雑多なエネルギーを感じ、自分の体も反応している。場に活力を感じている。その風にあおられるように、思考によって何かを検討することよりも、今ここにエネルギーを感じ、いつもよりちょっと胸を張って前を向く清々しさと力強さを、自分自身に感じたことは新鮮な驚きだった。

今回、シアトルから入った旅の最終目的地は、カリフォルニア州にあるスタンフォード大学だった。SSIRの各言語版⸺中国語、韓国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、日本語⸺の出版チームが初めて一堂に会する、グローバルカンファレンスに参加する予定だった。

ところがカリフォルニアに入ってからまもなく、僕はカンファレンスには参加できない状況になった。できる限りの予防策にもかかわらず、新型コロナウイルスに感染したからだ。初めはSSIR日本版の共同発起人で共に参加予定だった妻、数日あとに僕が発症し、家族みんなでこの経験をアメリカですることになった。

とても楽しみにしていたカンファレンスだった。SSIR日本版を立ち上げようと決めたときから、夢見ていたことでもあった。でも感染防止の点から、迷惑はかけられない。発症後の現地ルール、大学としてのルール、人それぞれのリスクのとらえ方。さまざまな選択肢を前に、どうしようかといろいろな思いがよぎった。

自分のなかを、早期回復の希望的観測と、一方で体の発する声がうごめく。

ずっと実現したかったのは、SSIR日本版のチームのみんながこの地に来て、SSIRをめぐる空気感や、目に見えない大切な何かを体で感じてもらうことだった。チームのみんながここに訪問して、時間をすごして欲しかった。彼らが別便でスタンフォードに到着できたことで、僕たちのミッションはコンプリートだよねと妻と話し、参加の可能性を手放すことで腹が据わったとき、なんだか空が広がったように感じた。体調はすぐれなくとも、エネルギーが湧いたように感じた。

回復してから再会したSSIRの編集長、エリック・ニーさんが言っていた。サンフランシスコ周辺のイノベーションの源泉はとてもシンプルで、さまざまな人を受け入れているという点に尽きると思う、って。ここにいる人たちがすごいから、新しいものを生み出しているというより、むしろ、ここに来た新しい人たちが起点となって新しいものが生まれているのだという。

エリックさんが数十年前に訪れたという日本や東京の町は、今のような整然としたきれいな感じはない代わりに、ちょっとカオスな雑多さがあって、それが何かを生み出すエネルギーだったのかもしれない。そんな話もした。

僕たちの日々の新たな展開は、思考だけでは前進しない。むしろ、思考によって心配ばかりが増えることだってある。今いる場にエネルギーを感じ、自分のなかにも力が湧き上がる。それだけのことが、立派な分析や検討よりも、ぐっと僕たちを前に進めることがある。

渡航前は、海外に行くことに少しこわさを感じていた。そんな自分に驚いていた。それでも、行ってよかった。違う風を感じられてよかった。また、(変な言い方だが)異国の地で新型コロナにかかってよかった。新しい目で、この地での日常を過ごすことができたように思う。

僕が滞在中にいつも感じていたエネルギーは、もしかすると、パロアルトの路上で出会ったような、オープンで力の湧くカオスから生み出されているんじゃないか。その雑多さにはこわさやリスクもあるが、同時にそれは何かが生まれるプロセスでもある。アメリカでの新型コロナウイルス感染を通じて僕が感じた混乱は、次の展開や体感への架け橋でもあった。

雑多である心地よさと、心地わるさ。これと共にあるのは、生きるエネルギーでもある。自らがオープンであろうとすること、そして雑多でも多様であることを許容する場を実現することは、大切な僕たちのエネルギーのつくり方なのだと、今回の、予定外に少し長くなった海外滞在で実感した。

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