NPO・NGO・コミュニティ, セクター

社会の暴走を防ぐのは政府でも企業でもない「3本目の脚」だ

特定の1つのセクターが社会を牛耳ると、社会のバランスが失われて、人々が苦しみを味わう結果になる。共産主義体制の下で政府セクターが社会を支配したときもそうだったし、資本主義の名の下で民間セクターが社会を支配している今日もそのようなことが起きている。社会が健全であり続けるためには、敬意を集める政府セクター、責任感をもった民間セクター、そして強靭な多元セクターが欠かせない。この3つ目のセクターを「非営利セクター」や「第三セクター」などといった不適切な呼び名ではなく、「多元セクター」と呼ぶことにより、このセクターをほかの二つのセクターと対等のしかるべき地位に位置づけることが可能になる。そうすれば、社会のバランスを取り戻すうえでこのセクターだけが果たせる役割を私たちも正当に評価できるようになるだろう。

※本稿はヘンリー・ミンツバーグ著『私たちはどこまで資本主義に従うのか――市場経済には「第3の柱」が必要である』(Rebalancing Society: Radical Renewal Beyond Left, Right, and Center,に基づくものです。

ヘンリー・ミンツバーグ

「第三セクター」というのはよく用いられる言葉だが、それが意味する内容は驚くほど曖昧である。このような漠然とした呼び名では、それも無理はない。「第三セクター」という言葉を聞いて具体的なイメージが湧く人がどれだけいるだろうか。このセクターには、もっとよい呼び名ともっと高い評価が与えられるべきだ。このセクターは、問題の山積している世界で社会のバランスを取り戻すために、欠くことのできない存在なのだから。

このセクター(詳しくは後述するが、著者は「多元セクター」と呼ぶのが最も適切なのではないかと考えている)は、今日の世界における大論争で一貫して無視されてきた。左翼対右翼、政府対市場、国有化対民営化という具合に、社会の重要な機関や団体のすべてが政府セクターと民間セクターのいずれかに属するかのような言い方をされることが多い。人々はしばしば、医療の質を確保するために、効率重視の市場ではなく、政府がコントロールするべきだと主張する。しかし、このような意見は、実際に多くの医療サービスがコミュニティの医療機関によって質重視の方針で提供されていることを見落としている。こうしたコミュニティの医療機関は、私が言うところの多元セクターに属している。また、「PPP(public private partnership)」という言葉が用いられることも多い。この言葉も、官(public)と民(private)の間にしかパートナーシップが成り立たないと決めつけているかのように聞こえる。

多元セクターは、ほかの2つのセクターの中間に位置しているわけではない。多元セクターと政府セクター、多元セクターと民間セクターの違いは、政府セクターと民間セクターの違いと同じくらい大きい。ほかの2つのセクターで中心にあるのがそれぞれ政府と企業だとすれば、このセクターで中心にあるのはコミュニティだ。多元セクターは、政府セクターおよび民間セクターと並び立つ存在として認められるべきなのだ。

多元性のあるセクター

では、このセクターはどのような要素によって構成されているのか。それは、官でも民でもない(政府によっても民間の投資家によっても所有されていない)すべての団体だ。そのなかには、メンバーによって所有されている団体もあれば、誰にも所有されていない団体もある。いずれのタイプの団体も無数に存在する。

メンバーによって所有されている団体の例としては、協同組合を挙げることができる。メンバーである組合員は、それぞれの協同組合の性格により、消費者の場合もあれば、納入業者や労働者の場合もある。そして、協同組合では組合員が1人1票の議決権をもっていて、その権利はほかのメンバーに売り渡せないものとされている。たとえば、インドでは、300万人の組合員を擁する「アムル」という乳業協同組合が有名だ1。スペインのバスク地方に拠点を置く世界最大の労働者協同組合「モンドラゴン」は、スーパーマーケットから工作機械製造まで多岐にわたるビジネスを展開し、雇用している人の数は7万4000人に上る2。また、顧客の立場で、信用組合やスポーツ用具店など、なんらかの協同組合に加わっている人も多いだろう。現在、米国だけで3万の協同組合が存在しており、組合員数の合計は3億5000万人に達している3。この人数は米国の総人口より多い。同様の所有形態は、同業者団体、商業会議所、キブツ(イスラエルの集団農業共同体)などでも見られる。

誰にも所有されていない団体のなかには、きわめて多様な素晴らしい団体がたくさん存在する。財団、クラブ、宗教団体、ある種のシンクタンク、環境保護団体のグリーンピースのような運動型NGO、人道支援団体の赤十字のような事業型NGOなどがこれに該当する。米国に存在する病院の多くは「任意寄付制病院」と呼ばれるもので、寄付金によって支えられているが、誰かに所有されているわけではない。すべての病院の58%をこの種の病院が占めている(政府が所有する病院は21%、民間の投資家が所有する病院も21%)4。カナダでは、病院の運営資金は主に政府が提供しているが、ほぼ100%の病院は、やはり誰にも所有されていない。このセクターのなかには、誰にも所有されていないものの、営利事業動をおこない、いわゆる「ソーシャル・エコノミー」の一部を形成している団体も含まれる。北米の赤十字は有料の水泳教室を開催して収益を得ており、ケニアの赤十字は慈善事業を支えるためにホテルを経営している。

著者が共著で執筆した論文“The Invisible World of Association”5では、このセクターの団体を4つのカテゴリーに分類した。具体的には、メンバーの役に立つことを目的とする「相互団体(mutual association)」(読書クラブなど)、メンバー以外の人たちの役に立つことを目的とする「慈善団体(benefit association)」(フードバンクなど)、メンバーの権利を主張することを目的とする「保護団体(protection association)」(商業会議所など)、そして、メンバー以外の人たちのニーズを代弁することを目的とする「活動団体(activist association)」(国際人権NGOのアムネスティ・インターナショナルなど)である。

この種の団体のほとんどは、法律に基づいて登録されていて、正式な組織の形態を取っている。しかし、このセクターでとりわけ重要なのはもっと自然発生的な団体、すなわち社会運動(social movement)と社会事業(social initiative)だ。社会運動においては、現状に抗議するために、しばしば大勢の人たちが結集する。エジプトの首都カイロのタハリール広場で起きたデモ(訳注/2011年に中東・北アフリカ諸国で民主化運動「アラブの春」が広がった際に、大々的な民主化デモが発生した)や、ウォール街選挙運動(訳注/2011年に米国ニューヨークのウォール街で格差是正を求めるデモが発生し、世界の多くの都市にも波及した)、米国のティーパーティー運動(訳注/2009年頃から勢いを増した草の根保守運動)などがその例だ。一方、社会事業においては、社会変革を目指して、たいてい少人数のグループが行動を起こす。多くの場合は、地域コミュニティ内での活動だが、マイクロファイナンスを手掛けるグラミン銀行のように世界規模に活動を拡大させているケースもある。

環境保護活動家ポール・ホーケンの著書『祝福を受けた不安』(バジリコ)の付録では112ページにわたり、文化、教育、環境汚染、社会正義、宗教などのカテゴリーごとにソーシャル・セクターの団体をリストアップしている6。ホーケンは、このような団体全般について、100万を超す団体によって構成される「ムーブメント」と表現しつつも

「ばらばら」で「まとまりがない」と評した。私たちの社会には、この種の団体がもっと必要だ。それだけでなく、社会の抜本的刷新を実現するために、このような団体が手を組むことも求められている。

なぜ「多元セクター」と呼ぶのか

このセクターの存在感が薄い一因として、適切な名称を自分たちでも決めきれていないことがある。「第三セクター」という呼び名は、いかにも三流という印象を与え、つけ足しの存在のように聞こえてしまう。「非営利団体(NPO)」や「非政府機関(NGO)」というのも、理にかなっていない。政府も「非営利」であり、企業も「非政府」である。

「ボランティア・セクター」と呼べば、ボランティアの役割を過度に強調することになる。最近では「市民社会(シビル・ソサエティ)」という古くからある言葉をあてることもある。しかし、これもなんの説明にもなっていない。無作法ではない社会とでも言うのだろうか[civilには「礼儀正しい」という意味もある]。「社会(ソーシャル)セクター」という呼称はまだいいとしても、この呼び名を使うのであれば、ほかの2つのセクターを「政治セクター」「経済セクター」と呼ばなければ筋が通らない。しかし、こうした呼称が用いられることはほとんどない。

最近、このセクターを研究している学者たちの集まりに出席したとき、筆者は1時間あまりの間に、こうしたさまざまな呼び名を耳にした。専門家が適切な呼び名を決められないようでは、それ以外の人たちがこのセクターを真剣に受け止めるはずがない。

筆者が「多元セクター」という呼称を提案する理由は二つある。ひとつは、このセクターに属する団体がきわめて多様で、所有形態もさまざまであることだ。政府機関と営利企業は、所有形態の種類がもっと少なく、組織形態も概してもっと階層型の性格が強い。もうひとつの理由は、「多元(plural)」と呼ぶことにより、「政府(public)」および「民間(private)」と並び立つイメージが湧きやすいと思えることだ。「市民社会」では、そうはいかない。このセクターに関する議論の場で私がこの呼称を使いはじめると、すんなり受け入れられた。

トクヴィルの指摘に立ち返る

多元セクターは、アメリカ社会で長く重要な役割を果たしてきた。19世紀フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、アメリカで活動している多くの団体を表現するために「結社(association)」という言葉を用いた[トクヴィルは1830年代のアメリカを訪れて、この新しい国の様子を丹念に観察した]7。アメリカの人々は、政府の力を限定的なものにとどめることを好む傾向があり、民間セクターの営利企業に加えて、多元セクターの「結社」を自発的に組織するようになったのだ。

「政治的結社は、アメリカに存在する多種多様な結社のなかの一形態にすぎない」と、トクヴィルは1830年代に著書に記した。「アメリカでは、あらゆる年齢、環境、性質の人たちがひっきりなしに結社を組織している。……なんらかの取り組みを主導するのは、フランスでは政府、イギリスでは貴族と相場が決まっているが、米国の場合、それはほぼ確実に結社なのである」8

トクヴィルは、このような結社をアメリカらしさの本質であるだけでなく、アメリカの民主主義の核を成す要素と位置づけていた。「人々が文明的であり続け、あるいは文明的になるためには、結社をつくる技術をはぐくみ、それに磨きをかけていく必要がある」というのだ9。少なくともアメリカでは、それが実現していた。しかし、今日、ハーバード大学享受のロバート・パットナムは著書『孤独なボウリング』で、アメリカにおけるコミュニティの崩壊を指摘した10。アメリカのシンクタンク「政策研究所」のチャック・コリンズは、学校、図書館、公園など、「誰もが頼りにしてきたコミュニティの機関」が一貫して「蝕まれ続けている」と論じた11(囲み記事「持続可能性に向けた苦闘」を参照)。

トクヴィルの見方が正しいとすれば、選挙の投票率が落ち込んでいることや、政治的活動のかなりの割合が民間セクターのロビー活動に動かされていることなど、アメリカで民主主義のプロセスが弱体化している背景には、このような潮流があるように思える。そうだとすれば、いま必要なのは、多元セクターがかつての影響力を取り戻すことなのかもしれない――そう、トクヴィルが200年近く前にありありと描写したような影響力を。

社会のバランスを取り戻す

私たちは個人として、そして社会全体としても、3つの基本的なニーズが満たされることを欲する。1つは、保護へのニーズ。これは、主として政府によって満たされる。もう1つは、消費へのニーズ。これは、主として企業によって満たされる。そして、残る1つは、帰属へのニーズ。これは、主としてコミュニティによって満たされる。この三つ目のニーズに関して言うと、私たちは個人主義的傾向と集団主義的傾向をもっているだけでなく、社会的動物であり、人とのつながりを渇望する。帰属意識と一体感を味わいたいのだ。そうしたニーズは、個人主義の下で人々が孤立しがちな現代社会ではひときわ大きい。以上の点を踏まえると、健全な社会は、敬意を集める政府セクターの政府機関、責任感をもった民間セクターの企業、そして強靭な多元セクターのコミュニティがあってはじめて成り立つものと言える。いずれかのセクターが弱体化すれば、社会はバランスを失う。

東欧の共産主義体制は、政府セクターがほかのセクターより優位に立っていたためにバランスを欠いていた。これらの体制の下では、保護へのニーズは満たされていたかもしれないが、個人の消費へのニーズは犠牲になっていた。一方、アメリカやその他のいわゆる「先進国」が旧共産圏諸国とは正反対の形でバランスを欠いている。これらの国々では民間セクターがほかのセクターより優位に立っている結果、少なくとも一部の人たちの消費と富の蓄積が過剰になり、ほかの多くの人たちの保護が不十分になっている。しかも、このいずれの体制の下でも、コミュニティが弱体化し、それに伴い、これまでコミュニティが生み出していた地域の集いの場が失われてきた。

アメリカの第二次世界大戦後の40年間は、社会と政治、そして経済がうまくまわっていた。政府セクターは強力だった(この時期にさまざまな福祉制度が導入された)。民間セクターの企業とそこで働く人たちは、急速な経済成長から恩恵を得ていた。そして、当時は多元セクターもまだ強靭だった。三つのセクターすべてのバランスが比較的取れていたのだ。

ところが、1989年に大きな転換点が訪れた。この年、東欧の共産主義体制が相次いで崩壊しはじめたとき、西側諸国の有識者たちは資本主義が勝利したという安易な説明に飛びついた。しかし、それは間違いで、途方もない勘違いだった。実際には、このとき勝利していたのはバランスだった。すでに述べたとおり、共産主義諸国では政府セクターの力が突出していて、その結果として社会のバランスが著しく欠けていた。そのために、これらの体制は、主としてみずからの巨体の重みに耐えられなくなって瓦解したのである。

この点が理解されていなかったせいで、その後、アメリカをはじめとする多くの国がバランスを失っていった。それぞれの国で民間セクターの力が増大しすぎたのである。それがどのような結果を招いたかは、自然環境が容赦なく痛めつけられ、民主主義の崩壊が加速し、個人が「人的資源(human resource)」として扱われ、尊厳がそこなわれていることに、はっきり見て取れる。私たちは原材料の一部だとでも言うのだろうか。

アメリカにおいて、バランスの欠如は、刑務所入所者の割合、肥満の人の割合、抗鬱剤の使用量、医療につぎ込まれている金額(ただし、医療の質はお粗末と言うほかない)、貧困率、高校の中退率、そして社会階層間の移動可能性など、さまざまな統計にあらわれている。所得格差も大恐慌以降で最悪の水準に達している。ある世論調査によると、職に就いているアメリカ人男性の70%は、「仕事に行きたくないと感じているか、精神的に追い詰められた状態にある」という12

アメリカ合衆国憲法を制定した人たちは、政府が過剰な力を持ちすぎることに歯止めをかけるために、抑制と均衡の仕組みを採用した。しかし、その制度が適用されるのは、あくまでも政府セクターの内部だけだ。いま求められているのは、合衆国憲法を見直して、民間セクターに対する抑制を強化することなのかもしれない。社会のバランスを取り戻すために抜本的刷新を実現するには、3つのセクターのそれぞれが十分な影響力をもち、ほかの2つのセクターの行き過ぎを抑制できる必要があるのだ。しかし、多元セクターが果たせる役割は、これだけではない。このセクターは、社会の再生に向けて特別な役割を担っているのである。

抜本的刷新を主導する

政府が民間セクターに取り込まれていたり、グローバル企業の強大な力に翻弄されていたりすれば、(たとえ表向きは民主主義の国であっても)政府が抜本的刷新を主導するとは考えにくい。地球温暖化対策を話し合った国際会議が相次いで失敗に終わっていることがよい例だ。13

しかし、民間セクターの企業が変革の旗振り役になるとも期待できない。社会のバランスが欠けている状況は、多くの企業、とりわけ強大な企業にとって有利な状況を生み出している。企業がそうした状況をわざわざ是正しようとするわけがない。昨今、企業の社会的責任(CSR)を重視する風潮が高まっているのは歓迎すべきことだ。けれども、それで企業の社会的無責任を埋め合わせられると思っている人は、ニュースをもっとよく読んだほうがいい。

そこで、多元セクターの出番になる。抜本的刷新は、地に足のついたコミュニティから始まるべきだ。その担い手になるのは、手ごわい問題に正面から向き合おうという強力な思いと、そのために必要な独立性と知恵をもっている人たちの集まりでなくてはならない。2013年、コフィ・アナン国連事務総長は、地球温暖化に関する国際的な話し合いがいつまでも成果を挙げられない状況を受けて、「では、いまどうすべきなのか」と問いかけた。アナン自身の答えはこうだ。「リーダーシップが求められているのに、政府が行動しようとしないのであれば、人々が先頭に立たなくてはならない。気候変動とその影響に対処するためのグローバルな草の根運動が必要とされている」14

官と民の対決のなかでずっと脇に押しやられてきた多元セクターが、社会のバランスを取り戻すための取り組みを主導することなど可能なのだろうか。しかし、それを成し遂げなければ、いずれ私たちはさまざまな問題に飲み込まれてしまう。地球温暖化による海水面の上昇に飲み込まれることはなんとか避けられたとしても、社会の混乱がもたらす政治的問題に飲み込まれるだろう。

多元セクターは目立たないかもしれないが、能力がないわけではない。前出のポール・ホーケンや、『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー(SSIR)』に掲載されてきた論文の著者たちが再三指摘しているように、このセクターは途方もない活力を持っている。その力の大きな源泉は、このセクターに属する多くの団体の独立性と柔軟性にある。それらの団体で活動する人々の熱量はきわめて高い。病気との戦いや環境保護など、団体のミッションが強い説得力をもっている場合は、とりわけその傾向がある。

このような人々は、一度も会ったことのない、どこかの株主のために「株主価値」を最大化させることを強いられる労働者でもなければ、数限りない政府のコントロールの下で活動しなくてはならない公務員でもない。多くの人は、職に就いている被雇用者ではなく、パーパスをいだいたメンバーという性格が強い。医療・人道援助団体の「国境なき医師団」でボランティアとして活動する医療従事者や、地域コミュニティを襲った想定外の災害に対処するために自発的に集まる住民たち、大規模な抗議活動に参加するデモ隊の人々などを見れば、それがよくわかる。「最も理想的に機能する市民社会においては、平凡な人たちが互いに関わり合うことにより、非凡な成果を挙げる」のである15

民間セクターで重きをなすのが個人主義的な「オーナーシップ(=所有者であること)」で、政府セクターで重きをなすのが集団主義的な「シティズンシップ(=市民であること)」だとすれば、多元セクターで大きな意味をもつのは、メンバーが共有する「コミュニティシップ」だ16。このセクターに属する団体は、たんなる「人的資源」の寄せ集めではなく、強い参加意識をいだいた生身の人間のコミュニティとして機能する。民間セクターの企業では、個人のリーダーシップがもっぱら脚光を浴びるが、多元セクターの団体をうまく機能させるために重要なのは、コミュニティシップだ。そこでのリーダーシップの役割は、コミュニティシップが機能するのを助けることである。

多元セクターに属する多くの団体は、コミュニティ「として」機能するだけでなく、コミュニティ「のなかで」活動してもいる。それらの団体は、グローバルな規模で活動するようになった場合でも、地域コミュニティに基盤を置いている場合が多い。著者はギ・アゼヴェドとの共著論文でこう指摘した17。「社会事業は……本質的に内発的なものと言えるだろう。集団内の問題に取り組むことが集団外への活動に広がっていく。活動の担い手たちは、世界の問題を解決するというより、メンバーにとって共通の問題を解決しようとする。そしてあとになって、自分たちの問題が世界の問題でもあったことに気づくのだ」

もちろん、多元セクターのすべての団体が潜在能力をすべて開花させているわけではない。理事会により、過度に形式主義的な組織構造を押しつけられたり、CEOにより、このセクターにそぐわないビジネス界の慣行(「CEO」という肩書もそのひとつだ)を採用するよう強いられたり、助成金を拠出する財団や政府機関により、不適切な統制を課されたりする場合もあるからだ18

また、多元セクターは、どんなに理想的に機能する場合でも、それだけをひたすら追い求めるべきものではない。特定の考え方を絶対視する凝り固まった思想は、共産主義と資本主義だけでもうたくさんだ。いま私たちが必要としているのは、あくまでもバランスである。政府セクターが行き過ぎると粗暴になり、民間セクターが行き過ぎると強欲になる。多元セクターは行き過ぎると偏狭になる可能性がある。多元セクターが最もよいかたちで機能しているときは、社会をより包摂的にしてくれるが、閉鎖的になって部外者の利害がないがしろにされる方向にも振れるうることを忘れてはならない。昔の魔女狩りは、コミュニティによって行われた。今日のテロ組織や狭量なポピュリスト政権もそれに通じるものがある。

それでも、近年の政府セクターと民間セクターの多くの既存組織に比べれば、多元セクターの団体は、前に進む道を切り開く力をもっている。それに、多元セクターが社会のバランスをある程度取り戻すことに成功すれば、政府組織の改革が前進し、民間企業はより社会的に責任のある行動を取るようになるかもしれない。建設的な社会運動と社会事業がローカルなコミュニティで実行されて、グローバルなネットワークを通じて影響力を広げていくことで、多くの問題を抱えた世界のバランスを回復できる可能性が最も高まるのだ。しかし、そのためにはまず、多元セクターが変わらなくてはならない。

多元セクターが足並みをそろえるべき時期

多元セクターにエネルギーが満ちていて、きわめて多くの活動がおこなわれているにもかかわらず、どうして世界はますますバランスを欠いた状態へ突き進み、民間セクター優位の状況に拍車が掛かり続けているのか。その理由としてさまざまな要因を挙げることができる。たとえば、多くの企業が巨大化していること、裁判所が企業を「法人」と認めて、ある種の権利(政治献金する権利など)を与えたことなどである。しかし、ある重要な要因にほとんど目が向けられていない。多元セクターでは多くの団体がそれぞれ責任感をもって立派な活動をおこなっているが、セクター全体が足並みをそろえて行動していないのである。たしかに、多くの社会事業は、世界中の人々の人生にきわめて大きな好影響を及ぼしている。しかし、ジョン・カニアとマーク・クラマーが『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー(SSIR)』に寄せた論文で用いた表現を借りれば「コレクティブ・インパクト」19を生み出すための統一的な社会運動は形づくられていない。その結果として、社会はバランスを失い続けているのだ。

その昔、シンガーソングライターのトム・レーラーが風刺ソングのなかで、スペイン内戦におけるフランシスコ・フランコとの戦いについてこう歌った。「彼は戦いにすべて勝ったかもしれないが、良い曲はすべて私たちのものだ」。いまこの地球の未来をめぐって戦われている戦いには、良い曲をもっていても勝つことはできない。どんなに心温まる曲であっても、それだけでは十分でないのだ。

多元セクターが直面している問題の原因は、その「多元性」にあるのかもしれない。もっとも、百家争鳴的な状況をつくり出すためには、ホーケンが描写したように、このセクターにおけるさまざまな活動が分散している必要があるともいえるだろう。「『第三セクターの世界は、雑然としている半面、好ましい活気に満ちている』。さまざまな利害が代表され、さまざまな機能が実行され、さまざまな能力がはぐくまれることを通じて、多元主義が促進されている」というわけだ20。この指摘は間違っていないが、このセクター全体がもっと足並みをそろえて行動しなければ、せっかくたくさんの花が開いても、これまで同様、より強い勢力によってなぎ倒されてしまうだろう。

民間セクターも、多元セクターに負けないくらいまとまりがない。企業は激しく競争し合っている。しかし、政府や議会に減税を働きかけるなど、共通の利益を実現するためには、足並みをそろえて行動する。ビジネス界は多くの場合、国内では商業会議所などの組織を通じて、世界規模では世界貿易機関(WTO)や国際通貨基金(IMF)などの国際機関――この種の国際機関はしばしばビジネス界の利益を代弁してきた――を通じて、声を合わせて自分たちの主張を展開してきた。この点では、多元セクターも民間セクターの戦略を少し学んだほうがいいのかもしれない。

といっても、多元セクターがビジネス界の手法を安易に模倣するべきだと言いたいわけではない。もちろん、どのセクターもほかのセクターから学ぶべき点がある。たとえば、民間セクターは、ミッションへの姿勢やガバナンスの透明性向上などを多元セクターから学ぶべきだ。しかし、多元セクターは現状で存在感が薄いため、独自性を強調することを疎かにしてはならない。3つのセクターに属する団体間のパートナーシップは、バランスが取れていて、それぞれのパートナーの役割を全面的に認めている場合に限って、歓迎すべきだ。そのようなパートナーシップの実例としては、デンマークの再生可能エネルギーに関する取り組みや、HIV/エイズ危機に対するブラジルの取り組みを挙げることができる21

経済学者のミルトン・フリードマンは、民間セクターの固有の役割をはっきり強調した。企業の仕事はビジネスを行うことである(the business of business is business)と主張したのだ22。この考え方は、企業にとって非常に役立ってきた。あまりに役立ちすぎて、企業の利害が民主主義のプロセスに干渉することすら起きている。そうした状況でいま多元セクターの団体に求められているのは、互いに手を携えることだ。世界のバランスを取り戻すために協働すべきなのである。ぜひ、多元セクターを応援してほしい。

持続可能性に向けた苦闘

多元セクターの弱体化をもたらしている要因のうち、とくに注目すべき要因が2つある。ひとつは、ほかの2つのセクターからのプレッシャー。もうひとつは、新しいテクノロジーの影響である。

共産主義が君臨した国では、民間セクターが衰弱し、資本主義が君臨している国では、政府セクターが乗っ取られるという弊害が生じているのは明らかだ。しかし、あまり認識されていないのは、共産主義も資本主義も多元セクターをとことん弱体化させてきたという点である。社会のバランスを取り戻すためには、その理由を理解する必要がある。

共産主義体制の政府は、コミュニティの団体に好意的だったためしがない(これは今日の中国にも言えることだ)。理由ははっきりしている。このような団体は、共産党が全能の存在だという建前を脅かす存在だからだ。アレクシ・ド・トクヴィルは、この点についてわかりやすく述べている。「独裁者は、臣民が自分を愛さなくても簡単に許す。臣民たちが互いのことを愛してさえいなければ」23。旧ソ連の共産主義体制に最初にひびを入れたのは、ポーランドの2つの団体の影響力だった。その2つの団体とは、共産主義体制下でも生き延びてきたカトリック教会と、カトリック教会が存在したおかげで台頭することができた自主管理労組「連帯」である。

しかし、選挙で選ばれた政府も、コミュニティの団体に厳しい態度を取ることが少なくない。その理由は、単にそのほうが政府にとって都合がいいからにすぎない場合もある。地域に根差した病院を強引に合併して広域の大病院に集約したり、小さな町を統合して大きな市に再編したりするケースがそうだ。どのような社会的影響を生むかに関係なしに、経済的な規模のメリットをひたすら追求する今日の風潮の下では、「コミュニティ」の重要性が認められているとは言い難い。

おおむね同様の理由で、民間セクターもコミュニティの団体を好ましく思わない場合がしばしばある。グローバルな舞台では、とりわけその傾向が強い。グローバルな製造企業は、税制優遇措置を引き出すために、地域コミュニティに工場などの誘致合戦をおこなわせている24。グローバルなファストフードチェーンは、ローカルな食文化の支援者とは言い難いし、グローバルなアパレルチェーンは、ローカルなファションに好意的とは言い難い。グローバリゼーションを推し進めようと思えば、均質化が避けて通れない。グローバリゼーションは、コミュニティの独自性とは対極にある状況を生み出すのだ。そのため、民間セクターがグローバルな規模で力を拡大するのに伴い、多元セクターはローカルな場で衰退していったのである。

いま多くの国で目立っているのは、政府が公共サービスを縮小する傾向だ。政府の代わりに、多元セクターがそうしたサービスを提供すると期待しているのだ。ある種の公共サービスに関してはそれが理にかなっているのかもしれないが、問題は、政府が予算を削減するのと並行して、多元セクターへの財政支援も削減している場合が多いことである。こうした予算削減による最大の受益者は、民間セクターの企業を所有する裕福な人たちだ。そのような豊かな人たちが慈善財団をつくるケースもあるが、そうした財団は実際に問題を緩和する役に立っているだろうか。仮に役に立っているとしても、資金提供を通じて、多元セクターの団体の独立性をそこなってはいないか。私たちが必要としているのは、社会の真のバランスだ。新しいアンバランスではない。

多元セクターにとってもうひとつ大きな打撃になっているのは、次々と登場する新しいテクノロジーだ。自動車や電話に始まり、コンピュータやインターネットにいたるまで、新しいテクノロジーが登場するたびに、人と人の結びつきが薄くなり、人々が社会に関わらなくなっている。

たとえば、人々が自動車という鉄の箱の中に入って移動するようになって、道路上で煽り運転などのトラブルが起きるようになった。それに対し、歩道で「煽り歩き」の被害に遭うことはあまりない。車間距離を異常に狭める煽り行為のように、歩道上でうしろから歩いてくる人に異常接近されることもめったにない(携帯電話をいじりながら歩いている人は、前の人にぶつかりそうになることがあっても)。歩道はコミュニティそのものではないが、コミュニティのなかに存在しており、自動車用の車線よりは人と人の接触の機会が間違いなく多い。

電話は、私たちが連絡を取り合う助けにはなるが、人々と地域コミュニティの間の距離を広げる。実際に訪ねるより、電話するほうが簡単だからだ。もっと新しい電子機器の類いは、この距離をさらに押し広げる。私たちはこの種の機器を使うとき、キーボードやタッチパネルには手を触れているけれど、誰とも触れ合わずに、何時間も一人でキーボードを叩いている。「孤独なボウリング」すらしない。

フェイスブック、リンクトイン、ツイッターといったソーシャルネットワークは、確かにスクリーンの反対側にいる誰とでもつながることを可能にする。しかし、ネットワークとコミュニティを混同してはならない(フェイスブックの「友達」に、家のリフォームの手伝いを頼めるだろうか)25。これらの新しいテクノロジーは、私たちの人的ネットワークの規模を飛躍的に拡大させたが、その代償として、生身の人間同士の関係がそこなわれている。メールを打ったり、ツイッターに投稿したりするのに忙しすぎて、人と会ったり、本を読んだりする時間がほとんどない人も多い26

ジャーナリストのトーマス・フリードマンがエジプト人の友人にエジプトの民主化デモについて尋ねたところ、こんな言葉が返ってきたという──「フェイスブックは、人々が連絡を取り合う助けにはなったけれど、力を合わせる助けにはなっていない」27。大規模な社会運動(social movement)は、変革の必要性について人々の意識を高める役割を果たせるかもしれない。しかし、実際に変革への取り組みを担うのは、コミュニティの団体から生まれる小規模な社会事業(social initiative)なのだ。

それでも、新しいメディアが人と人のつながりを後押しすることにより、人々は同じ目的意識をもった人を見つけやすくなった。ローカルな団体同士がグローバルな規模でつながり合うことにより、小規模な社会事業をより大規模な社会運動に移行させる道も開けてきた。このような機能は、新しいテクノロジーが旧来の「結社」づくりに及ぼしている悪影響を埋め合わせることができるのか。そうであってほしいものだ。社会的動物である私たちは、なんらかの形で団体に帰属することを欲する性質がある。社会の状況が手遅れになる前に、人々が帰属する団体と出会えることを願いたい。

【翻訳】池村千秋
【原題】Time for the Plural Sector(Stanford Social Innovation Review, Summer 2015)
【イラスト】Adam Simposon

注)

1 http://www.amul.com/m/organisation

2 http://www.mondragon-corporation.com/eng/

3 http://community-wealth.org/strategies/panel/coops/index.html

4 http://kff.org/other/state-indicator/hospitals-by-ownership/

5 Henry Mintzberg et al., “The Invisible World of Association,” Leader to Leader, Spring 2005.

6 Paul Hawken, Blessed Unrest: How the Largest Movement in the World Came Into Being, and Why No One Saw It Coming, New York: Viking Penguin, 2007.[『祝福を受けた不安──サステナビリティ革命の可能性』(邦訳・バジリコ)]

7 Alexis de Tocqueville, Democracy in America, London: Penguin Classics, 2003 (1835/1840).[『アメリカのデモクラシー』(邦訳・岩波文庫など)]

8 de Tocqueville, p. 106.

9 de Tocqueville, (1840), p. 10.

10 Robert D. Putnam, “Bowling Alone: America’s Declining Social Capital,” Journal of Democracy, 6, no. 1, 1995, pp. 65-78; Robert D. Putnam, Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community, New York: Simon and Schuster, 2000.[『孤独なボウリング――米国コミュニティの崩壊と再生』(邦訳・柏書房)]

11 Chuck Collins, 99 to 1: How Wealth Inequality Is Wrecking the World and What We Can Do About It, San Francisco: Berrett-Koehler, 2012.

12 Timothy Egan, “Checking Out,” New York Times, June 20, 2013. これらのデータについては、著者の電子パンフレット Rebalancing Society(2014 年 2 月に著者のウェブサイトwww.mintzberg.org に公開)の pp. 100-104, 124-127 を参照。このような状況が人々の人生にどのような影響を及ぼしているかは、ロバート・パットナムが子ども時代を過ごしたオハイオ州の町の貧困層と富裕層について、過去と現在を比較した論考を参照。Robert Putnam, “Crumbling American Dreams,” New York Times, August 3, 2013.

13 2009年に世界の政府の代表者たちがデンマークのコペンハーゲンで話し合ったとき、その成果は、英国のエネルギー・気候変動担当相の表現を借りれば「数字を議論の俎上に載せたこと」だった(James Kanter, “An Air of Frustration for Europe at Climate Talks, New York Times, December 20, 2009)。その 2年後、南アフリカのダーバンに集まった 200カ国の代表者たちは、「新しい条約に向けた長い交渉のプロセスを始めることで合意した」( Ian Austen, “Canada Announces Exit from Kyoto Climate Treaty,” New York Times, December 12, 2011)。そして2012年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された国際会議「リオ+20」では、「持続可能な開発をめぐる議論を始めたという点で、歴史的合意が  生まれた」との触れ込みだった(CBC radio, June 22, 2012)。同じく 2012年、世界で最も環境に悪影響を及ぼしている国(“Pocket World in Figures, 2012 Edition,” The Economist)であるカタールのドーハで「国連気候変動会議」が開かれた。

14 Kofi Annan, “Climate Crisis: Who Will Act?” New York Times, November 25, 2013.

15 Michael Edwards, Civil Society, Cambridge, England: Polity, 2004, p. 112. [『「市民社会とは何か――21世紀のより善い社会を求めて』(邦訳・麗澤大学出版会)]。また、以下も参照。 Warren Nilsson and Tana Paddock, “Social Innovation From the Inside Out,” Stanford Social Innovation Review, Winter 2014.

16 Henry Mintzberg, “The Leadership Debate with Henry Mintzberg: Communityship is the Answer,” FT.com, 2006. http://www.ft.com/intl/cms/s/2/c917c904-6041-11db-a716-0000779e2340,dwp_uuid=8d70957c-6288-11db-8faa-0000779e2340.html#axzz1nL67BT00 Henry Mintzberg, “Rebuilding Companies as Communities,” Harvard Business Review, 87, no. 7, 2009.[邦訳「コミュニティシップ経営論」DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー2009 年 11 月号]

17 Henry Mintzberg and Gui Azevedo, “Fostering ‘Why Not?’ Social Initiatives–Beyond Business and Governments.” Development in Practice, 22, no. 7, 2012, pp. 895-908.

18 「米国の市民社会は、この40年ほどの間に『メンバーシップからマネジメントへ』と移行してきた。……その一因は、リベラル派のエスタブリッシュメントが草の根のアクティビズムと乖離している場合が多いことにある。……世界規模で、非営利セクターの職業化が進行し、このセクターの団体と、その社会的土台の距離が次第に広がりはじめている」(Edwards, Civil Society, p. 35)

19 John Kania and Mark Kramer, “Collective Impact,” Stanford Social Innovation Review, Winter 2011. [「コレクティブ・インパクト」『これからの「社会の変え方」を、探しに行こう。――スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー  ベストセレクション 10』(SSIR JAPAN)所収]

20 Edwards, Civil Society, p. 32. Oliveira and Tandon を引用。

21 Mintzberg and Azevedo, “Fostering ‘Why Not?’ Social Initiatives.”

22 Milton Friedman, “A Friedman Doctrine: The Social Responsibility of Business Is to

Increase Its Profits,” New York Times Magazine, September 13, 1970.

23 de Tocqueville (1840), p. 102.

24 「欧米による開発の取り組みは、人々を伝統的な生計の手段から切り離し、家族や地域コミュニティによる安全の絆を解体してきた。その結果として、人々は現代的な企業の生み出す雇用と生産物に依存するようになった」(David Korten, When Corporations Rule the World, West Hartford, Conn.: Kumarian Press, Berrett-Koehler Publishers, 1995, p. 251.[『グローバル経済という怪物――人間不在の世界から市民社会の復権へ』(邦訳・シュプリンガー・フェアクラーク東京)]

25 近年、実際にはネットワークにすぎないものを「コミュニティ」という言葉で表現することが多い。「ビジネス・コミュニティ」や「医療コミュニティ」など、「共通の利害はもっているが、価値観や歴史や記憶は共有していない人たちの集まり」にまでコミュニティという言葉が用いられているのだ。100年か200年前には、コミュニティとは、「特定の土地に、特定のメンバーによって形づくられ、メンバーが互いのことを知っていて、互いに対して評価をくだし、互いのことをいつも気にかけ、習慣と歴史と記憶を共有し、ときには一部のメンバーのために全体として行動しようと決断できるようなグループ」のことを言うように見えたのだが(Anand Giridharadas, “Draining the Life From ‘Community,’” New York Times, September 22, 2013.)

26 評論家のスティーブン・マーシュによれば、私たちは主として自分たち自身の行動が原因で「過去に例がないほどの疎外を味わっている……。新しい交流の方法が次から次へと登場する世界において、私たちは現実の社会を失い続けている」(Stephen Marche, “Is Facebook Making Us Lonely?” The Atlantic, May 2012.)

27 Thomas L. Friedman, “Facebook Meets Bricks-and-Mortar Politics,” New York Times,June 9, 2012.

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