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誰が市民社会の基盤を守るのか

誰が市民社会の基盤を守るのか

フィランソロピー(慈善活動)の資金や労力の大半は、地球温暖化や極度の貧困問題など大きく報じられる問題に注ぎ込まれる。その一方で、同じくらい重要でも目に見えにくい問題、たとえばニュースメディアの衰退といった問題は見過ごされがちである。しかし健全な市民社会がなければ、他の重要な問題の解決もきわめて困難になる。

※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 01 ソーシャルイノベーションの始め方』より転載したものです。

ブルース・シーバーズ
Bruce Sievers

21世紀における人類の喫緊の課題は何かと問われたら、多くの人は地球温暖化、過剰な人口増加、極度の貧困、核の拡散など、世界中の新聞の一面で大きく報じられる社会問題を挙げるだろう。一方で、市民社会とそれを構成する制度や機関の衰退が、早急に対応を要する緊急課題だと指摘する人はほとんどいないと思われる。

フィランソロピスト(慈善事業家)もまた、メディアで大きく取り上げられることの多い教育、医療、経済開発、環境分野の問題の解決に関心や資金のほとんどを向けている。たとえば、地球温暖化を食い止めるために毎年何十億ドルものフィランソロピー資金が費やされている一方で、民主的な市民社会の本質的な機能であり、環境の未来に重要な役割を果たす市民の意思決定プロセスの改善に向けられる金額は、相対的に少ない。

フィランソロピー資金のうち、市民社会の基礎となる制度や機関への支援、健全な市民社会の価値観や規範の普及に使用されるのはせいぜい数パーセントだ。市民社会への関心の欠如はフィランソロピーの根本的な弱点である。自由闊達な市民社会とそれに付随する要素⸺たとえば十分な情報提供の下で積極的に市民社会に参画する一般大衆⸺が欠けていれば、その他の緊急課題の解決も妨げられかねない。

なぜこのことがフィランソロピストにとってもそれ以外の人にとっても急を要する問題なのか。それは、アメリカの市民社会が加速度的にその健全性を失っているからだ。その兆候は私たちの周りに溢れている。ニュースメディアは商業化し、議会に対する一般大衆の信頼が低下し、市民組織の加入者が減少し、政治的議論においては礼節が失われる一方だ。これらはすべて、市民社会を支えてきたつながりの衰えを示している。

もし市民社会がそれほど重要ならば、その健全性に対するフィランソロピストの関心が、なぜこれほどまでに低いのかと疑問に思うかもしれない。その理由は、社会問題を解決する際に、測定可能で具体的な成果を生み出す応用科学や、投資で用いられる道具主義(インストルメンタリズム)のアプローチが主流となっているからだ。このアプローチは、手頃な価格の住宅の建設や、職業訓練の供給など、成果が測定しやすい場合には有効だが、社会参画の促進や社会的信頼の向上といった、曖昧で測定が困難なタイプの問題の解決には向かない。しかしそうした問題への取り組みこそが市民社会を市民社会たらしめるものなのである。

市民社会の基盤とは何か

フィランソロピストが市民社会に目を向けてこなかった理由と、それを反転させうる方法について掘り下げる前に、まず市民社会とは何かを理解することが重要である。市民社会という概念のルーツは古代まで遡るが、いま私たちが市民社会と呼んでいるものの萌芽は16 ~ 18 世紀の欧州に見られる。この時代は個人主義が発達し、個人の権利、特に信教と表現の自由に対する関心が高まり、国家権力の統制を受けない市民社会の領域が明確になっていった。フーゴ・グロティウス、バールーフ・スピノザ、ジョン・ロック、バーナード・マンデヴィル、アダム・ファーガスンといった啓蒙思想家が、初期の市民社会の要素について考察している。この時代に爆発的に高まった市民社会という概念への関心は、その後長きにわたって後退したが、近年になって復活の兆しが見られる。

現代の論者のなかには市民社会を狭く定義して、非営利セクターあるいは非政府組織と同義と見なす人たちもいる。しかし本稿では、それらの民間団体に加えて、統治機構、フィランソロピー、表現の自由に関連する社会システム、そして人権、公益、寛容の規範を含めて広く定義している1。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授であるヘルムート・アンハイアが簡潔に示した「市民社会とは、人々が共通利益の拡大のために礼節に基づいて自発的に連携する、家族、政府、市場以外の場である」という定義がそれに近い2

アンハイアの定義において重要なのは、市民社会が「共通利益の拡大」を目的とすることを強調している点だ。別の言い方をすると、市民社会(と、その一部であるフィランソロピー)は、公共の「益」を実現して「害」を軽減するための個人の努力を連携させる器である。実際に、フィランソロピーの実践者は、自分たちは公共の益(公教育、きれいな空気や水、文化活動など)の創出・保全と、公共の害(地球規模の気候変動、国際的な暴力、貧困)の低減に関わっていると考えている。

この崇高な目標を達成することが難しい理由の1つは、市民社会のなかで、ある特定の利益を追求したいという個人の願望と、公益を追求したいという願望が絶えず対立していることである。この対立関係は2つの根本的な課題を引き起こす。それは集合行為<コレクティブ・アクション>の問題と、価値多元主義の問題である。前者は、個人の利己的行動によって、共通の合意が達成されている場合でも集団の目的の達成が困難になるケースである。その例の1 つが「コモンズの悲劇」である。この用語はもともと、共同所有の土地に牛を放牧した場合、しばしば過放牧に陥るのはなぜかということを説明するために使われたものだ。現在では、人類が共有する資源(大気や海など)が世界中で乱用され、地球温暖化や海洋汚染を招く理由を説明するときに使用されている。

2 つ目の価値多元主義の問題は、競合し、相いれない意見があるなかで、どのように世界の共通の目的を達成するか、ということに関連する。たとえば、人が納得したうえで自らの死の時期と方法を選択でき、医師にそのプロセスを補助してもらえるのが良い社会だと考える人がいる一方で、そのような社会は宗教的、倫理的な基本原理に反すると考える人もいるかもしれない。こうした根本的な価値観の対立について、哲学者アイザイア・バーリンは「人間には多数の目的があり、それらが必ずしも原則的に両立するとは限らない」という有名な言葉を残している3

市民社会において、矛盾する利益、目標、価値システムの対立関係を、公共の益を増やして害を減らすかたちで解消するのは複雑な作業である。利益を上げることが明確かつ唯一の成功条件となるビジネスや、変数を限定して制御できる自然科学で直面する課題よりもはるかに難解だ。

公益に対するコミットメント

アメリカの市民社会の本質的な特徴のうち、ここ数十年で著しく衰退したものが2 つある。それは公益に対する個人のコミットメントと、メディアの公共機能である。それによって、十分な情報提供の下で積極的に公益の追求に参画する市民を育てるという市民社会のきわめて重要な能力が弱まっていることを裏づける事例にはこと欠かない4

アメリカの市民社会の基盤の1 つが、公益の追求に対する個人のコミットメントである。ジョン・ウィンスロップによる1630 年の「丘の上の町」演説から、「公益」の重要性を強調したバラク・オバマの大統領就任演説に至るまで、コミュニティのウェルビーイングや未来の世代への関心が脈々と議論のテーマになってきた。アメリカ社会においては、個人的利益の追求と公益の追求の対立が常に存在し、そのバランスが変化してきたという歴史がある。しかし20 世紀半ば以降、公益に対するコミットメントは明らかに衰退している。

ハーバード大学の教授で『孤独なボウリング』の著者であるロバート・パットナムは、市民参加や社会的信頼が劇的に減少し、それと反比例するように個人の目的の追求や競争が激化していることを実証してきた。パットナムたちは、アメリカに新たなかたちのソーシャル・キャピタルの形成を促すために、パットナム自ら率いるサワーロ・セミナーの「Better Together(ともによりよい未来へ)」という報告書で一連の提言を示してきた5。そのなかに政治分野の学者やパブリックコメンテーターから広く支持されている2 つの提言がある。それは公教育の強化と市民参加の充実である。

ブルッキングス研究所のウィリアム・ガルストンは、公教育が民主主義的価値観、寛容性、市民参加、社会的信頼の強化につながるという確実なエビデンスを示し「公共問題に関する知識が増えれば増えるほど、公共生活における一般的な不信や恐れの類いを抱かなくなる。無知は恐怖の父であり、知識は信頼の母である」と指摘した6。効果的な公教育の重要な特徴は、参加者にとって切実で重大な影響をもたらすような原理原則に力点を置いていることである。この分野で委託研究や教育プロジェクトを実施している財団として有名なのはニューヨーク・カーネギー財団、ロックフェラー兄弟財団 、ピュー慈善信託などだが、その他の財団にとっても公教育支援を拡大する余地は大いにある。

公益の規範を強化するための2 つ目のアプローチは、市民参加を促進することである。ここには政治参加、投票、アドボカシー活動、ボランティア、公共問題に関する積極的な議論といった幅広い活動が含まれる。これを妨げるのが、公的な場に参加することへの無関心と露骨な敵意だ。市民参加の衰退は多面的に起きているため、正確に分析をしたり、すぐに結果が出るような方法で対処したりすることは難しいが、こうした無関心や敵意は市民社会が機能するうえで大きな脅威である。

公教育、市民参加、社会的信頼という要素は好循環する場合もあれば、悪循環する場合もある。ポジティブな状況下では、これらは相互に強め合う。そしてネガティブな状況下では、市民社会を弱体化させる破壊的なサイクルを生み出す。

あらゆる形態の社会参加を世代別に調査した2004 年の研究では、特に若い世代において公共生活への参加に大幅な減少が明らかになった。同研究報告の執筆者らは「この変化は不吉な意味合いを持つ」と警告している。この研究結果によると、米国のドットネット世代(15~28 歳)とX世代(29~40 歳)は、地域社会への関与レベルは上の世代と同程度だが、政治プロセスへの参加レベルが極端に低いことがわかった。同研究報告は「私たちは市民権のささやかだが重要な変化を目撃しているのかもしれない。その変化とは、公共の利益とは何かを決定する仕組みとして政府や選挙よりも、民間セクターや政府以外のパブリックセクターなどにおける取り組みに関心が向かっているということである」と結論づけている7

一方で、公共的なテーマの議論や活動を含むオンラインコミュニティへの参加が急増するにつれて、この変化に対抗する流れが起きているという見方もある。その一例がMoveOn.orgのような公共政策のアドボカシーグループだ。ブログ記事でフォロワーを集める、ソーシャルメディアを活用する、といったかたちの市民社会への参加も盛んになっている8。しかし、デジタルメディアを介したコミュニケーションと政治参加の関係を丹念に研究してきた多くの研究者たちは、未来の展望にむしろ悲観的だ。彼らは、対面の交流の減少が政治参加の減少につながると見ている9

民主主義における活発な市民活動を実現するためには、公共問題に関する教育を受け、積極的に関わる人が必要である。残念ながら、そのような活動を支援する団体やフィランソロピストは非常に少ない。その数少ない例の1つがチャールズ・F・ケタリング財団による市民による討論や政治参加への長期的支援である。市民参加を拡大させる方法には、人々を公共の意思決定プロセスに参画させるプログラム(討議型世論調査、公開討論会、コミュニティの組織化、ボランティア、コミュニティサービスなど)への直接的な支援もあれば、先に述べた公教育の支援などの間接的なものもある。

衰退しつつあるメディアの公共機能

健全なシステムとしての表現の自由を体現するのが、規制を受けない独立したメディアの存在だ。これは市民社会に欠かせない要素であり、市民社会の発展の歴史にも密接に関わってきた。メディアは公共問題に対する市民の考え方に影響を与えるとともに、市民が自らの意思を表明する最も重要な手段になる。

大手新聞の衰退は、市民社会に欠かせないメディアの不安定な現状を如実に示すものだ。新聞は公共問題に関する情報の拡散ツールとして重要な役割を果たすだけでなく、公共政策に関する知識基盤となるジャーナリズムの原点である。それらが衰退の一途を辿っていることは、市民社会の健全性に対する明白な脅威である。もはや営利企業としての新聞の存続は不可能だと思われるし、だからといって政府による出資は明らかに不適当である。そうなるとフィランソロピーによる持続的支援という選択肢に行きつく。この選択肢を実現するための提案もいくつか登場してはいるが、目ぼしい進展は見られていない。

『公共性の構造転換』を著した哲学者のユルゲン・ハーバーマスは、欧米の民主主義国では民営化の影響で公共セクターが衰退した結果、市民が自分たちの共通の関心事について意見交換する能力を失いつつある状況を最初に指摘した1 人である。利益至上主義の現代のメディア業界では、人々の「関心」が切り売りされ、大きな政治力や経済力を握る人々が、意識調査や広告宣伝を通じて世論を操作しようとしている。その結果、市民への情報提供プロセスがますます市場の力にコントロールされるようになる。

フィランソロピーのより大きな支援が必要な分野は、たとえばプロフェッショナルなジャーナリズムの実践を強化すること、政府の発信する情報にアクセスしやすくして政治の透明性を上げること、討議型世論調査の実行組織に資金を提供すること、情報拡散や市民同士の議論を促進するための新たなコミュニケーション技術の活用を検討することなどである。

市民社会の構築と維持という点では、新しいメディア(インターネット、携帯電話その他の電子通信手段)にどんな可能性と限界があるのかはまだよくわかっていない。楽観的にとらえれば、インターネットを使った市民の意見交換が大いに発展することも考えられる。たとえば財団などの助成によって市民社会とインターネットの関係性について、その可能性と限界の調査がなされれば、公共目的のマスコミュニケーションの未来に多大な影響を与えることができるかもしれない。

ヘルマン・ファミリー財団は2009 年、カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院、ニューヨーク・タイムズ、その他のパートナーが参加する非営利報道事業の立ち上げに500 万ドルの助成金を提供することを発表した。これはサンフランシスコ地域のニュース報道と、提携メディアへのニュース記事の提供を目的としたものである。フィランソロピストが非営利の報道事業に資金を提供した例は、プロパブリカやカイザー・ヘルス・ニュースなどがあるが、こうした分野への支援額は多くはない。

そんななかでもメディア分野への金銭的支援で際立った活動をしている例としてはフローレンス・アンド・ジョン・シューマン財団による公共意思決定プロセスの透明性向上のための活動や、ジョン・S・アンド・ジェームズ・L・ナイト財団やカーネギー財団によるジャーナリズム改善のためのプログラム、政治問題の客観的世論調査に対するピュー慈善信託の長期的支援、ベントン財団のメディア政策イニシアチブ、ウォレス・アレクサンダー・ガーボード財団によるドキュメンタリー映画制作の継続的支援などがある。

科学的フィランソロピーの功罪

いまこそフィランソロピストが現代の市民社会の弱点を解決する絶好の機会だといえるかもしれない。しかし、20 世紀の米国のフィランソロピーを特徴づける2つの傾向が、それを困難にしている。すなわち道具主義が台頭したこと、それに伴って視野が狭まり、複雑で一筋縄ではいかない社会問題に対応できなくなっていることだ。この2 つの傾向がもたらしたのは、フィランソロピストが社会問題に対して工学的に、あるいはリターンを最大化しようとする投資家のように取り組むという由々しき傾向である。

道具主義
道具主義は、19 世紀後半のアメリカで初期のフィランソロピーの基となった認識論的志向に由来する。この時代には、伝統的なフィランソロピーの無秩序、非効率、恣意性に対抗することを目的として、アンドリュー・カーネギー、ジョン・D・ロックフェラー、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア、マーガレット・オリビア・セージなどが創設した大規模な慈善団体が活動を始めた。その活動は一般に応用科学的で認識論的な前提に基づいていた。その大規模なイニシアチブは「科学的フィランソロピー」の先駆けとなり、当時台頭しつつあった医療科学の進歩を1 つの基盤とするかたちで、科学と慈善事業を融合させた。

科学的フィランソロピーは、好ましくない社会的パターンの背後にある病因、つまり病気を引き起こす細菌のような因子を発見し、解毒剤に相当する適切な治療法をもってそれを根絶しようとする。その根本的な前提は、理論的知識を獲得し、技術的介入によってそれを応用することを目指すというものだ。これは、経験を通して得られた実践的な現場の知識に基づいて判断するというやり方の対極にある。

この問題について、ジェームズ・スコットは著書、 Seeing Like a State で見事に分析し、社会を理解して介入する際に実践的な現場の知識(彼はギリシャ語で「メティス」と呼ぶ)が持つ優位性を説いた。スコットは「非常に不確実性が高くて(経験に基づく)直感を頼りに手探りで進まざるを得ないような、複雑な題材や社会課題に対して、(メティスは)最も適した論理的思考方法である」と指摘し、科学に基づいた国家による介入の限界について論じたが、これはフィランソロピーにもあてはまる10

実際のところ、フィランソロピーが解決しようとしている社会課題のほとんどは、予測不可能で、無数の変数が存在し、対照実験の条件が揃わず、期間を区切った取り組みにそぐわないものだ。つまり予測可能性、限られた変数、再現可能な実験、制御を基本とする科学的手法と真っ向から対立する。たとえば、アメリカの政府機関やフィランソロピストは過去数十年にわたって公教育の改善に巨額の資金を投じてきたが、その際、標準学力試験の点数や生徒の在学率といった厳密な指標に大いに頼ってきた。しかしこの科学的アプローチの結果は芳しくない。それは単純に、変数があまりに多いうえに、それらが文化、政治、経済、環境などから予想のつかないランダムな影響を受けるからだ。同様のことは、若者の育成やコミュニティの組織化、高齢化対策、芸術、政策アドボカシー活動をはじめとして、慈善事業が活発に行われる多くの領域についてもいえる。

道具主義的なフィランソロピーの発展に強い影響を与えた2 つ目の要素は、政治に由来する。アメリカでは建国以来ずっと、ジェファーソン主義者と連邦主義者の間で、社会政策を決定するうえでの私的団体の役割が議論されてきた。19 世紀末から進歩主義の政治的潮流が顕著になったが、そのなかで強大になった私的団体の力を国がコントロールすべきであるという論調が強まった。1900 年代初めにジョン・D・ロックフェラーの慈善事業に調査が入ったのを皮切りに、 20 世紀には、説明責任を果たさない独占資本の権力拡大に対する疑念が政治的テーマとして何度も浮上した。

そして近年、フィランソロピストに対してさらなる説明責任を要求する動きが、新たな問題を生んでいる。明らかな詐欺行為や、慈善事業のリソースが私的に利用されることを防ぐというもっともな理由から始まったものが、いつのまにか税制の優遇に見合った、あるいはそれ以上の社会的便益を(測定方法はどうあれ)創出するという非現実的な期待にすりかわっていったのである。そのことが道具主義的アプローチへの注目を後押しすることにもなった。

道具主義的フィランソロピーの形成に大きく影響してきた3 つ目の要素が、慈善事業にも営利事業と同じ測定基準や手法を適用しようという動きである。これを支持する人々は、しばしば社会的投資利益率を定式化することを通して、出資を成果(いわゆる金銭的な成果)と結びつけて、寄付金が明らかな⸺理想的には定量化できる⸺結果を生み出しているという安心感につなげようとしている。寄付が良い結果をもたらしているという証拠を寄付者に提供するのは当然だという考え方にも一理あるが、測定偏重の姿勢が、実現不可能な期待や、組織の優先順位の歪みを引き起こす原因にもなっている。インテル コーポレーションの共同創業者でフィランソロピストでもあったゴードン・ムーアの言葉を借りれば、こうした「測定可能性を押し付ける巨大な圧力」が、視野の狭い評価や、資金提供者からのきわめて厳しい成果への要求というかたちで、非営利活動を歪めている11

以上の要素⸺科学的認識論の手法、定量的な提供価値で判断される説明責任、社会的投資利益率の過度の強調⸺の影響が相まって生じる強力な圧力によって、フィランソロピーは個別の目的を重視し、測定に適した狭い範囲の課題解決を目指す方向に向かいがちになった。このようなモデルは、実業界で成功してきたフィランソロピストを中心に広く支持されている。しかし、そこには公益の提供能力という点で根本的な欠陥がある。また、需要主導の線形的なソリューションでは容易に解決できない、非常に複雑で、多面的で、相互作用的な人間社会の問題に対処するための概念としてはまったく不十分である。

●再帰性の問題
フィランソロピーは、「再帰性」という、より深い課題にも立ち向かわなければならない。これは、人間の活動や社会の変化を理解するとはどういうことか、という核心的な問いにもつながる。再帰性とは、社会における知識と行動の相互作用的な性質のことをいう。つまり、ある社会的状況にいる人物の思考と行動は、同じ状況にいる別の人物の思考と行動に影響を与え、逆に影響も受けるということである。投資家でフィランソロピストでもあるジョージ・ソロスは、複雑な社会的相互作用を理解し予測するうえで、安直な市場モデルでは深刻な限界があると指摘してきた12

ソロスによると、1997 ~ 1999 年のアジア通貨危機は、金融システムにおける再帰性が作用した例だ。世界のプレイヤーによる判断や駆け引きの相互作用がエスカレートした結果として発生した経済的メルトダウンが、市場が本来持っている自己修正力を破壊してしまったのである。社会政策においても、これまで数々の野心的な政策⸺禁酒法、カーター政権のエネルギー政策、禁欲主義的教育など⸺が、対象となる人々の受け止め方や反応を考慮に入れることをしなかったがために頓挫してきた。

これと同様に、再帰性を無視し、資金提供対象の絞り込みや定量的評価をますます重視する傾向が、社会生活の複雑性を正しく考慮しない概念モデルへとフィランソロピーを突き進ませている。20 世紀初頭のロックフェラー、カーネギー、ラッセル・セージらの財団による科学的慈善事業がつくり出したこの流れは、同世紀の最後の数十年にさらに影響力を増した。資金提供者のビジョンと受け取り手のニーズが噛み合っていないために失敗している海外での支援プロジェクトはいたるところにある。同様に、近年ではいくつもの団体が[指標や目標に基づいた]スタンダードベースの教育改革に莫大な投資をしているが、満足のいく結果は得られていない。ニューヨーク大学教授のダイアン・ラビッチは、その主な原因は大規模なフィランソロピーが教師、保護者、生徒の視点を適切に考慮していないことだと主張している13

ビジネスセクターでは「金を稼げるかどうか」が唯一の目的であり、わかりやすい成功の判定基準である。しかしソーシャルセクターには、それに相当する画一的な判定基準は存在しない。社会問題の解決に注ぎ込まれた資金を正当化するために、そうした基準を当てはめようとすれば、市民社会の性質を歪めることになる。市民社会の目標には多くの場合、主観的な理解に基づくさまざまな行動、態度、価値観が含まれており、それらに対する資金提供者、サービス提供者、受益者、一般市民の判断はそれぞれに異なる。商業的取引が公共財のもつ再帰性を担保できないというまさにその理由から、市民社会という公益の担い手が生まれたのである。

再帰性を考慮することの重要性を示すある政策アドボカシー活動を紹介しよう。ウォレス・アレクサンダー・ガーボード財団は10 年以上にわたって終末期患者に医師の介助による死を選ぶ権利を与えることを目指す非営利団体Compassion & Choicesの活動を支援した。この団体は2009 年、モンタナ州憲法に1970 年代に挿入された人間の尊厳に関する文言(および後年のいくつかの法律の文言)を根拠に、モンタナ州最高裁判所で「死ぬ権利」を認める判決を勝ち取った。この判決は全米に、そして世界に影響を及ぼすだろう。

過去のフィランソロピーの成果によって、時間がかかりながらも実現したこの非常に重要な事例は、ビジョンを持った人々による支援と、他の多くの関係者とのやり取りのなかで発展したアイデアが実を結んだものであり、何らかの運用指標を設定するような特定のインパクトをもたらすことを狙う投資の成果ではない。

市民社会のバランスを取り戻す

フィランソロピーはジレンマを抱えている。社会に最も蔓延している問題⸺質の高い教育、公衆衛生の向上、環境保護、異文化間の理解、世界規模の安全保障に対するニーズ⸺は公益の問題であり、その解決に最も力を発揮できるのは市民社会とフィランソロピーのはずだ。ところが現代のフィランソロピーは、市場原理で測れるような成果がある程度見込める、運営体制の整った専門的なプログラムを追求する傾向を強めているために、そうした問題に対処する能力を十分に発揮できていない。

民主主義で公益を実現する最終手段は、民主主義のプロセスそのものである。現代のリベラルデモクラシーは市民社会の基盤の上に成り立っている。市民社会は、公と私の対立関係を内包しつつ、公益の問題の解決策を模索するなかでこの正反対の勢力のバランスを保つ可能性も示している。市民社会はフィランソロピーの支援を受けて、方程式の右辺と左辺⸺個人的な活動の自由と創造性と、公共に対する責任という自制心⸺の両方を発揮できる場であるからこそ、公益を追求する合理的な媒体となりうるのだ。

フィランソロピーへの資金提供者は個人であれ団体であれ、市民社会の構造を強化することが自らの重要な責任の一部だと認識するべきである。多数の社会的圧力がばらばらな方向に働いている時代に、このような意欲的な目標を達成することが果たして可能なのかという問題は依然として残っている。その答えは不透明だが、確かなことが1つある。市民社会が岐路に立っているいま、この課題を引き受けるフィランソロピーの手腕が、とてつもなく重要な影響を及ぼすということである。

【翻訳】友納仁子
【原題】What Civil Society Needs(Stanford Social Innovation Review, Fall 2010)
【写真】Zhu Hongzhi on Unsplash

ブルース・シーバーズ

スタンフォード大学のセンター・オン・フィランソロピー・アンド・シビル・ソサエティの客員研究員である。また、カリフォルニア・カウンシル・フォー・ザ・ヒューマニティーズの創設者でCEOを務めたほか、ウォルター・アンド・エリス・ハース基金のエグゼクティブディレクターも務めた。最近の著書にCivil Society, Philanthropy, and the Fate of the Commonsがある。

  1. Bruce R. Sievers, Civil Society, Philanthropy, and the Fate of the Commons (Hanover, N.H.: University Press of New England, 2010).
  2. Helmut Anheier, “The CIVICUS Civil Society Index: Proposals for Future Directions,” in CIVICUS Global Survey of the State of Civil Society, Volume 2: Country Profiles (West Hartford, Conn.: Kumarian Press, 2007).
  3. Isaiah Berlin, Four Essays on Liberty (Oxford: Oxford University Press, 1969): 169.
  4. 『孤独なボウリング 米国コミュニティの破壊と再生』ロバート・D・パットナム著、柴内康文訳(柏書房、2006年) (New York: Simon and Schuster, 2000); 及び William Galston, The Practice of Liberal Pluralism (Cambridge: Cambridge University Press, 2004).
  5. 報告書はhttp://www.bettertogether.org/thereport.htmで入手可能。
  6. William Galston, “Civic Education and Political Participation,” PS: Political Science & Politics, 37(2), April 2004: 263-66.
  7. Cliff Zukin, Scott Keeter, Molly Andolina, et al., A New Engagement? Political Participation, Civic Life, and the Changing American Citizen (Oxford: Oxford University Press, 2006): 86-7.
  8. Morley Winograd and Michael Hais, Millennial Makeover: MySpace, YouTube, and the Future of American Politics (Piscataway, N.J.: Rutgers University Press, 2008).
  9. Norman Nie and D. Sunshine Hillygus, “The Impact of Internet Use on Sociability: Time-Diary Findings,” IT and Society, 1 (1), Summer 2002: 1-20.
  10. James Scott, Seeing Like a State: How Certain Schemes to Improve the Human Condition Have Failed (New Haven, Conn.: Yale University Press, 1998): 327.
  11. John Hechinger and Daniel Golden, “The Great Giveaway,” The Wall Street Journal, July 8, 2006: 1. より引用。
  12. George Soros, Open Society: Reforming Global Capitalism (New York: Public Affairs, 2000):xxii-xxiii, 6-9, 38-45.
  13. Diane Ravitch, The Death and Life of the Great American School System: How Testing and Choice Are Undermining Education (New York: Basic Books, 2010).
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